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日記・2024.10.7

日記をつけようと思う。
昔もこんなことを思い立って文字通り三日坊主で終わったが今回はもう少しだけ長く続けたい。
備忘録の性質が大きいので質的に広く全世界に公開するほどのものでもない気もしますが、それでも読んでくれる方がいれば恐悦至極に存じます。

さて、今日は8時に起きたもののソファで二度寝した。昼近くになって半覚醒のまま妻を病院まで送る。帰りにホームセンターのなかにあるパン屋で安いパンを買ってお昼ご飯にした。100円代の安いパンと400円くらいする高いパンの関係って回転寿司と回らない寿司の関係みたいだなとか思った。それぞれの良さがある。
Panasonicが作っている2000円くらいする洗濯槽クリーナーを買う。これを使えば1年間は手入れがいらないらしい。本当なのだろうか?

帰り道ブックオフに寄って以下の3冊を購入した。

地元のブックオフにはやたらと良い本がある。古く足利学校を擁した学園都市でもあったこの街は学徒が和歌を詠み合う風流なところであったらしい。ブックオフでその微かな名残を感じるのもなんというか皮肉なものではある。街の個人書店はその数が大きく減って久しい。
3冊とも冒頭の少しだけ読む。

ブックオフから帰る道、渡良瀬川を渡る。土手下にある運動公園に降りて行き妻とフリスビーをした。隣接する昔よく行った遊水公園はどうやら閉鎖されているらしく草が伸び放題であった。思い出のなか賑わっていた水辺をいまでもはっきりと瞼に思い浮かべることができるが、現状の荒れた光景との差に些か悲しくなった。
妻が土手に大きなキノコを発見して驚いていた。キノコは好きだが詳しくないのでデカい椎茸みたいなキノコであるとしか表現できない。このキノコが生えていたのはある程度人の手が行き届いた場所であったためなんというか大変な違和感があった。森にキノコが生えているのとはまた違う趣であった。
このあいだ読んだ中井久夫のエッセイ「きのこの匂いについて」には、キノコ、つまり菌の匂いとは「死−分解の匂い」であると書いてあった。
キリスト教を持ち出さずとも森とは死の気配を内包する場所であることは、たとえ森の入り口程度であってもしかと実感できる。
森に存在するキノコは人を驚かせない。しかし死の匂いから遠く、人が整備した芝生に生えたキノコはその突然の死の気配をもって人を驚かせるのだろうか。

アトリエに行く。
最近なかなか絵が完成しない。僕の悪癖だが「この絵はもう良くならなそうだな」と思うと絵を途中で放り出して剥がしてしまう。それから剥がした絵をアトリエの壁にホチキスで留める。なんとなく捨てるのは忍びない。

晩御飯はこのあいだ買っておいた炊き込みご飯とわさび野沢菜を食べる。キノコの炊き込みご飯かタケノコかで迷ったが昼間見たデカいキノコが頭をよぎりなんとなくキノコを食べる気がしなくなりタケノコにした。
と思いきや、あと一品何か欲しいなと思いスーパーに行きなぜか舞茸を買ってしまった。黒舞茸という、自然に近いストレスをあえて与えることで味を良くした品種らしい。なるほど、通常のものよりも味は濃く香りは豊かであり大変美味である。キノコの香りというのは確かに「死−分解の匂い」であるが同時に精神が落ち着く香りでもある。

私は、今までにとおってきたさまざまの、それぞれ独特のなつかしい匂いの中にほとんどすべて何らかの菌臭の混じるのを感じる。幼い日の母の郷里の古い離れ座敷の匂いに、小さな神社に、森の池に。日陰ばかりではない。草いきれにむせる夏の休墾地に、登山の途中に谷から上がってくる風に。あるいは夜の川べりに、湖の静かな渚に。

中井久夫「きのこの匂いについて」『家族の深淵』所収
(みすず書房、1995、p.260)

晩御飯は遅くなったが食休みもできたし日記もある程度の分量になったのでもう一度アトリエに行って制作の続きをしようと思う。今度の絵は上手くいけば良いが。

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