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日記「三月の水」

あさ、電車に遅れないよう少し雨が降る道を急ぎ足で歩く。普段使う道とは異なるルートを辿ると脳に良いと昔なにかで見たことを思い出し、いつもは通らない寺のそば、お堀の脇を通る。
やや空気が冷たい。たぶんそのせいだと思うが、お堀を泳ぐ鯉の動きが鈍い。鈍いというかほとんど動いていない。また、鴨も水温が低いのか、水面から露出している排水のパイプの上に避難していた。
鯉と鯉、鴨と鴨、鴨と鯉、それぞれの間にふと目が行く。
あるいは、履いている革靴、透明な水、雨が波紋を作る、石畳、水たまり、側溝とその隙間、靄のかかる信号機、それぞれの間にふと目が行く。ものごとが並列されていると感じられるとき、そこに詩性が宿る。いや、詩性が入り込む隙間が生じるというほうが正確かもしれない。ものごとの緊密な結びつきは、世界を理解し把握することには役に立つかもしれないが、それに対してたまたまそこに相並んだという偶然は有用性からずれた場所に詩性の居場所を作る。
僕の描く抽象的な色彩の作品も色と色の間に、先日の日記でも描いた引力を感じながら描いているが、その引力は、偶然そこにおかれた色彩によって生じる。引力が先にあるのではなく、まず相並ぶ偶然がある。

アントニオ・カルロス・ジョビンによる「三月の水」という曲がある。

この曲はさまざまなもの、たとえば小石、棒切れなどの言葉が特に接続詞によってつなぎ合わされることなく並列されていく。曲はこのように始まる。翻訳は全て菊地成孔による。

枝 石ころ 行き止まり 切り株の腰掛け
少しだけ ひとりぼっち ガラスの破片
これは人生 これは太陽
これは夜 これは死 これは銃

それから中盤。

人生の約束 心の喜び
浮遊 漂流 飛行 翼
鷹 鵜 春の約束
泉の源 最終行き
落胆したあなたの顔
喪失 発見
蛇 枝 あいつ あの男
あなたの手の中の棘
そして、つま先の傷
川岸が語る 三月の水

並列された言葉は、音楽に乗り歌われることで前の単語の記憶をかすかに含み込んだまま次の単語へと移行される。それは偶然そこにあっただけかもしれないが、それでも隣同士であるその偶然が、前後の言葉に相互的に影響を与えて、詩性に満ちた持続を生み出している。

子供の頃、親がリビングのステレオでジョアン・ジルベルトの歌うこの曲をよくかけていた。当時言葉の意味はわからなかったが、ものごとの有用性による結びつきが強固になる前の幼児期にこの曲を聴けたのは幸運だったのかもしれない。

今日、ささくれが剥けて、少し血が出た。それから大きな緑色の橋を徒歩で渡り川を越える。
「あなたの手の中の棘 そして、つま先の傷 川岸が語る三月の水」。
それは異なるもの同士の結びつきによるイメージの喚起ではない。新たなる他者との出会いによる自らの陶冶でもない。それはただそこに並んでいて、それゆえに真実なのだろう。それを歌いうること、それゆえに詩と音楽に憧れるのだろう。

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