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神輿、権力

今日も今日とて車を走らせてお風呂に行った。

仕事が忙しくてここのところ絵を描けていない。描けていないときに頭の中にイメージされる完成図はとても素晴らしいものに思えるが、実際白い紙の前に立つと、あれほど明瞭に想像できたと思っていたイメージは、その白のあまりの完璧さに眩んでどこかへ消えてしまう。

u-nextでよく「水曜日のダウンタウン」を見ている。このあいだはドッキリ中にきしたかの高野が可愛がっている後輩の窃盗を目撃してしまうという逆ドッキリの回を見た。高野は情にあつい男であるらしく、盗みを働く(ふりをする)弟分を本気で泣きながら叱り飛ばしていた。芸人の世界というホモソーシャルの悪い面は無数にあると思うが、良い面はといえばこのようなところ、まぁヤクザ映画とかでも散々描かれているような義理と人情なのだろう。
美術の世界もなかなかにホモソーシャルなところなので、義理と人情のようなテンションで動いている界隈は少なからず存在する。
僕はといえば元来の性質と、それから酒が飲めないことも手伝ってそのような世界とは良くも悪くも無縁である。酒飲みだったらそんな場に楽しく参加して、展示に誘われる機会なんかも増えるのかなぁなどと思うが、下戸という人間はアルコールが分解する能力がないだけでなく、酔うことで自分が楽しくなるというイメージを描く能力もない。
酔ってる人を見るのは嫌いではないのだけど。ずっと説教している人、逆にめちゃめちゃ人のことを褒めまくる人、突然走り出す人、色々な人がいて面白い。

まぁともかく、先輩後輩、兄貴弟分、親分子分みたいな世界にはあまり馴染めない。それが短期的には互助として働き、自分のキャリアに有利に働くことが頭ではわかっていても、生来のものは変えられないからしょうがない。

人と話していて思い出したのだけど、僕の小学校ではダンボールでお神輿を作る行事があった。2年生のころ、僕が描いた恐竜のアイデアが採用され、クラス(といっても14人しかいなかった。)みんなでアロサウルスの神輿を作ることになった。
アイデアが採用された僕は監督のような立ち位置になり、友人たちを指揮する役割を担った。当時、ずっと一緒に遊んでいた友人Aがなぜか共同監督のような立ち位置にいつの間にか収まり、2人で神輿を指揮した。
性格的にはどちらかというと穏やかだった幼き僕だが、面白いもので、監督という権力を握ると横暴になっていった。共同監督の友人もお調子者だったため、2人してどんどん増長していった。
あるとき、なにか些細なミスをしたクラスメイトを僕たち2人で責め立てた。僕らに責められた彼はその後、文字を読むふりをしながら、涙が瞳から零れないように少し上を向いて黒板を見つめていた。
その様子をふと見てしまった僕は、それまでの横暴な振る舞いを恥じた。

いまだに涙をその目に湛える彼の横顔が目に浮かぶ。振り返れば、あのときに権力の恐ろしさと、誰でも暴君になりうる可能性を知ったように思う。

そんなわけで、僕はなにかのトップとかリーダーとかにならないでいたい。いや、なりたくないわけではないのだけど、なったら問題をおこす可能性が高いからなれないという方が正確か。

僕が強権を発動して作った恐竜神輿は、どうしても2本の細い脚で胴を支えることができず、アロサウルスというよりツチノコになった。

(ヘッダーは大学一年のころ僕が出した神輿案。大変すぎるという理由でボツになった)

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