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スーザン・フィリップス

昨日はヤオコーのイートインでおにぎり(美味しい)を食べ、アトリエに行って少し制作をしたものの、鉱石を掘る謎のスマホゲーにハマって時間を無駄にした。めったにスマホの無料ゲームはしないのだが、中毒性に特化しているだけありやはり油断ならない存在だ。
普通にテレビゲームに夢中になる時間よりもはるかに罪悪感が増すのは、作品とみなせるか否かという点に起因しているように思う。ある程度のまとまりとして始まりと終わりがあり、開かれすぎていないことが作品の要件の一つなのかもしれないとたまに思うが、その点から言えば反復を主としたゲームプレイと絶え間ないアップデートを繰り返しユーザーを離さないスマホゲームの設計思想はやはり作品とは少し遠い位置にあるだろう。

たとえばこの日記はとりあえず今のところ終わりを想定していないが、かりに一年分を本の形にしてまとめたら質の如何に関わらず一応は作品として捉えられるだろうし、このままネット上に垂れ流すままであれば作品とは言えぬ日常に生じる結節のようなものに留まる。
そうしたものをあらわす言葉、作品と呼ぶには違和感があるがたんなる自然でもないものはいま、「コンテンツ」と呼ばれるのだろう。

「ジャンルに貴賤はない、だが、ジャンルの中には厳然として貴賤が存在する」とは、『らーめん再遊記』でも紹介された村松友視『私、プロレスの味方です』からの言葉のアレンジであるらしい。作品とコンテンツ、芸術といった言葉の間にももちろん貴賤はないが、それぞれに当然特性はあって、とくに芸術ということを考えるときずっとぼくの頭から離れないのはアガンベンのいう「落ちる美」、ヘルダーリンの使う意味での「中間休止」、バタイユがマネに対して評する「躊躇い」や「震え」などの言葉である。アガンベンもそのように書いている気がするが、これらがある作品とない作品の間には否定しがたくその価値の高低を感じてしまう。

せっかくなので関連して、印象に残った作品6個目について書きたい。

6.Susan Philiptz : War Damaged Musical Instruments

テートブリテンに足を踏み入れると、展示室であるはずの場所に何も置いていない。まもなく高い天井からなにやら音楽のような、雑音のような音が流れていることに気がつく。
キャプションを読むと、どうやらそれは戦争でダメージを受けた楽器が奏でる音であるらしい。

説明すればこれだけのことなのだが、この空間、何もないとはいってもテートの荘厳な内装に、多少の違和感をもって響き渡る不協和音ともいえない散り散りの音の連なりは、未だ深く印象に残っている。
テートの敷地が野戦病院として使われていたことや、その空間設計の見事さ、コンセプトの明快さなど、ともすればそれらが、スピーカーから奏でられる音楽という一つの理想的な統合へと結実してしまいそうなところ、壊れた楽器の不完全さがそれを妨げる。この統合の寸前でのその失敗こそが「落ちる美」であるように思う。たとえば横浜トリエンナーレで出品され好評を博していたラグナル・キャルタンソン《ザ・ビジターズ》などは、個々の映像作品のなかで歌う人々がやがて一つのハーモニーをなしそれはそれでひとつのユートピアンドリームな雰囲気があり良い作品ではあったけれども、この「落ちる美」に伴う内臓がふわりと浮くような実存に関わる感覚はやはり無い。

一つの理想的空間にまとめ上げられるということはそこに存在していたさまざまな不完全であるものを捨象してしまうことになるだろうが、そもそも一つの芸術作品が歴史に内在する存在全てを包括することは当然不可能であり、そのとき、作品そのものの不完全さを虚構の完全さで覆い隠すのではなくあえてその裂け目を本質として曝け出すという判断が力をもつことになる。
Susan Philiptzの作品も、こうした芸術の好例であるように思う。

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