見出し画像

日記「完璧、三島、ジンメル」

さて、松浦寿輝の『青の奇蹟』(みすず書房、2006)を読んでいたら、「三島を憐れむ」というエッセイが収録されていた。以下の部分が印象に残る。

技術的には完璧と言ってよい出来栄えの三島の短篇の幾つかのことを考えている。彼はそれらを完璧なものたらしめようと精魂傾け、懸命に細部を磨き、慎重な手つきで組み立て上げ、その出来上がりをためつすがめつしながら、深夜の書斎で一人密かにほくそ笑んでいたに違いない。(中略)しかしこれもまた偉大な文学とは無縁の幸福だという点は、可哀相だがもう一度念を押しておかないわけにはいかないだろう。「完璧」の観念(ないし妄念)が通用するのは二流の文学の完成品に対してだけである。

前掲書、pp.279-280



三島のことは全然知らないのでこの評が正しいのかどうかの判断は措いておくとして、ただここで言われている偉大さと完璧さの相反は確かに腑に落ちる部分がある。僕がもっとも好きなエッセイの一つである、ゲオルク・ジンメルの「ヴェネツィア」に、このような記述がある。

実に奇妙なことだが、ある内的な形而上的な世界を直接に指し示しながら、この世界を表現すべきである``````のに実際は表現していない、そんな芸術作品もかずかず存在しているのである。そこでは、部分部分がたがいに調和し、完璧を誇ることはあるにしても、全体``は、それが本来属していないひとつの根から生い立っている。全体がそれ自体の内部で完璧であればあるほど、それだけいっそう虚偽は徹底的になる。

ゲオルク・ジンメル『芸術の哲学』(川村二郎訳、白水社、2005、p.101)

松浦のいう「偉大な文学」とは、やはり生の根というものから滋養を得て開花した、大地との繋がりが存在しているからこそそれ自体で完結するということがあり得ず、ひいては完璧でもあり得ないような作品のことだろう。そして完璧であり得るような作品は「二流の文学」だというが、それは生の根から切り離されているからこそ「もぎ放されて海にただよう花のように」自足した美しさを備えており、それゆえに偉大さに欠けるのである。

松浦もジンメルも、生との連関を持つ偉大さを上に置き、完璧さを下に位置している。もちろんそれは正しいだろう。後者をのみ評価していたら芸術という概念全体がおそらくはブルジョアによる戯れへと地滑りしていくはずだ。
しかしそれでもなお、人は完璧で小さな領域に自足した「海にただよう花のよう」な作品を求めてやまない。もちろん僕もまたそうした人間の一人である。それは生と繋がっていないからこそ、自らを脅かすことがない。その内部で起こるいかなる悲しみも喜びも、自分から数メートル離れているところで弾ける火花に過ぎず、火傷を心配する必要もない。
そのような安全な芸術作品もまた、間違いなく必要なものなのだ。仮に全ての芸術が偉大かつ一流の、生との直接の関係を持ち得ていたものだとして、そのような世界では人間は今よりもはるかに不幸な存在であっただろう。
あるいはもうひとつ思うのは、偉大な作品を生み出した芸術家もまた、完璧を目指していたのではないかということだ。彼/彼女の才能、環境その他諸々が偉大であることを運命づけ、完璧から離れた場所に作品を導こうとも、その完成に至るまでの道のりでは完璧が目指されていたに違いない。

たしかダリがどこかで言っていた。完璧を恐れてはいけない、完璧になど到達できるはずがないのだから、と。

いいなと思ったら応援しよう!