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「未来派宣言」

20世紀の芸術家はとかく「宣言」をしがちであるとは様々なところで言及されている気がするが、その中でもセンセーショナルなのはやはりマリネッティによる「未来派宣言」であろう。9条から引用する。

九、我々は戦闘に栄誉あれと要望する。ーー世界に健康を与うる唯一のもの、ーー軍隊、愛国主義、無政府主義者のすべてを破砕する武器、殺すという美しい理想、婦人蔑視、ーーこれらに栄誉あれと要望する。

十、我々は美術館を破砕し図書館を破壊し、道徳、女々しきものその他全般の投機的功利的手段を打破せんことを要望する。

十一、我々はこれらを高唱する。労働、快楽ないしは叛逆に興奮し熱狂している大群集、現代の主都に見る革命の多色多音なる波瀾、電閃的な月光を浴びている工場・工厰の深夜の動乱、煙を吐く蛇を呑む貪婪極まる停車場、煙の糸によって雲に支えられている製作工場、日の光に輝き返っている河の悪魔の剣に体操家のごとく跳ねかかっている橋、水平線をかすめていく冒険的な戦列艦、鉄路の上を跳ね躍っている長い煙筒で身をかためられた鋼鉄の馬にも似て腰廓広機関車ないしは、スクリューの響きが翼の羽ばたきにも熱狂する群集の喝采にも似て滑走し飛ぶ空中飛行器。我々はこれらの歌を高唱する。

「未来派創立宣言」(木村荘八訳)『芸術の革命』(洛陽堂、1914、pp.555-562)

好戦的かつ扇情的、そして革命的であろうとする宣言であるが、どことなくたとえば古代ギリシャのようなクラシカルな趣もある文章だ。ニーチェのいう超人やデュオニソス的熱狂の影響下にあると思えばそれも納得できる。
未来派宣言に関してはその戦争賛美が少しわざとらしいというか、どことなく今でいうバズらせようという下心がなんとなく見えてしまう気もする。どちらかというと僕は同じく好戦的な言葉でも、マレーヴィチのいう「ルーベンスの絵を見ることと、それを燃やして灰を詰めたビンを見ることには違いはない」みたいな放言のほうが好きだ。
いやどう考えても違うだろと言いたくなるが、その断言がマレーヴィチを前に進めるために必要であったのかもしれない。実際にはマレーヴィチはルーベンスを燃やしていない。思想の上で燃やしても同じだと暴力的かつ短絡的に断定するということがまず必要であったのだろう。

21世紀、このような宣言はなかなか流行らない。(ひとつ今世紀の初頭に「宣言」をしたコレクティブがパッと思い浮かんだが措いておく。)
以下の大宮勘一郎の文章がその理由の一端を見せてくれるかもしれない。

制作と廃物の区別が不意に曖昧になってしまう、という二〇世紀前半の前衛芸術が拠り所の一つとした経験ともこれ〔制作と廃棄物の間の「詩的均衡」のこと〕は異なっている。そもそもそのような経験は、持続的に保たれることのありえないものであった。それは区別が失われた曖昧さが一瞬凝固するところに恵まれる美的ないし存在論的臨在であり、その瞬間が解かれれば再び制作は制作、廃物は廃物へと別れゆくことになる。(〔〕内は引用者注。)

大宮勘一郎『ベンヤミンの通行路』(未來社、2007、p.167)

ルーベンスの絵とルーベンスの絵を燃やした灰が等価となるその瞬間は一瞬の凝固でしかありえず、やがて時間の持つ均衡の力が両者の差異を回復する。宣言は混じり合った流体に衝撃を加えてダイラタンシー現象を引き起こし凝固させる力であり、ゆえに攻撃的であることが求められる。

未来派宣言がなされた1909年、未来派と名指された一団の最年長は30歳であったらしい。若い時分、ある種の暴力的な思考が制作の原動力となることは間違いないだろう。そして未来派が好んだ速度の表象のように自身の持つエネルギーを増大させていく。
しかし、今日なんとなく歩いていて思いついた比喩なのだが、制作とはアクセル全開で爆走するというより、むしろアクセルとブレーキを両方踏みっぱなしにするようなものなのではないか。速度やそれを生み出す機構に美を見出した未来派だが、僕はむしろブレーキとアクセルを同時に踏むことで焼けるブレーキパッドの匂いと、地面についたタイヤの跡にそれを見出したいような気がする。

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