「未来派宣言」
20世紀の芸術家はとかく「宣言」をしがちであるとは様々なところで言及されている気がするが、その中でもセンセーショナルなのはやはりマリネッティによる「未来派宣言」であろう。9条から引用する。
好戦的かつ扇情的、そして革命的であろうとする宣言であるが、どことなくたとえば古代ギリシャのようなクラシカルな趣もある文章だ。ニーチェのいう超人やデュオニソス的熱狂の影響下にあると思えばそれも納得できる。
未来派宣言に関してはその戦争賛美が少しわざとらしいというか、どことなく今でいうバズらせようという下心がなんとなく見えてしまう気もする。どちらかというと僕は同じく好戦的な言葉でも、マレーヴィチのいう「ルーベンスの絵を見ることと、それを燃やして灰を詰めたビンを見ることには違いはない」みたいな放言のほうが好きだ。
いやどう考えても違うだろと言いたくなるが、その断言がマレーヴィチを前に進めるために必要であったのかもしれない。実際にはマレーヴィチはルーベンスを燃やしていない。思想の上で燃やしても同じだと暴力的かつ短絡的に断定するということがまず必要であったのだろう。
21世紀、このような宣言はなかなか流行らない。(ひとつ今世紀の初頭に「宣言」をしたコレクティブがパッと思い浮かんだが措いておく。)
以下の大宮勘一郎の文章がその理由の一端を見せてくれるかもしれない。
ルーベンスの絵とルーベンスの絵を燃やした灰が等価となるその瞬間は一瞬の凝固でしかありえず、やがて時間の持つ均衡の力が両者の差異を回復する。宣言は混じり合った流体に衝撃を加えてダイラタンシー現象を引き起こし凝固させる力であり、ゆえに攻撃的であることが求められる。
未来派宣言がなされた1909年、未来派と名指された一団の最年長は30歳であったらしい。若い時分、ある種の暴力的な思考が制作の原動力となることは間違いないだろう。そして未来派が好んだ速度の表象のように自身の持つエネルギーを増大させていく。
しかし、今日なんとなく歩いていて思いついた比喩なのだが、制作とはアクセル全開で爆走するというより、むしろアクセルとブレーキを両方踏みっぱなしにするようなものなのではないか。速度やそれを生み出す機構に美を見出した未来派だが、僕はむしろブレーキとアクセルを同時に踏むことで焼けるブレーキパッドの匂いと、地面についたタイヤの跡にそれを見出したいような気がする。