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「潜勢力(うろ覚えの)」

今日池袋駅から職場に向かう途中の道で頭の大きい猫が僕の前を横切った。その同じ猫を見つめて笑うおばあさんは僕のななめ右前にいて、奥には西武線だかなんだかの電車が走っているのが見える。良い日だ。


通勤途中の電車の中で、せっかく新しい大きな画面のiPhoneを買ったので(中古のiPhone13pro max)映画でも見るかと「ザ・ホエール」を鑑賞する。
ここでいうホエールとはメルヴィルの小節『白鯨』に登場するモービーディックである。メルヴィルは『バートルビー』を読んだきりで、代表作である『白鯨』は未だ読んでいない。

バートルビーは書記生であり、そして潜勢力の申し子でもある。彼はことあるごとに"I would prefer not to"と言う。「しないほうがよいのですが」と言い続け、まず仕事をしなくなり、そのうち全てを「〇〇しないほうがよいのですが」と圧倒的な消極性で拒むまでになる。いや、拒絶というより単に「しないほうがよい」だけなのだ。
ここにアガンベンは「しないということができる」という非の潜勢力を見出す。通常の意味での潜勢力、つまりポテンシャルは、「することができる」と言う状態である。実際にするしないに関わらず、常に「することができる」という状態であることがポテンシャルが存在するということだ。ポテンシャルを持つ人間は常に「する」「しない」を選び取ることができる。
それにたいして「しないということができる」ということは「しないということをする」のであり、それが可能性のままに留まる場合、「しないということをしない」ということになり、つまり「する」こととなる。
何を言っているかわからないと思うが僕もわからない。
一昨年の個展で潜勢力を扱ったときはもう少しわかっていたと思っていたのだけれど、案外忘れてしまうものだ。

《中庭で眠る 2》

まぁともかくその時考えていたはずのややこしいあれこれは置いておいて、芸術において「しないほうがよい」ことは多々あるはずだと思っているのだけど、案外世間ではそうでもないらしい。
種々の伝統的芸術の枠組み、例えば絵画や彫刻、詩etc…においてはその強固な媒体によって、芸術家が「しないでおいたこと」を感知し得るものとなっている。それゆえに、ある種「しないほうがよい」という潜勢力の内在は芸術の存立の条件ですらあると言えるのではないかと思っている。

なんかちょっと前の日記に似たようなことを書いたような書かなかったような、もうすでに記憶があやふやである。
最近寒くて駅まで歩いて行くことが減った。工事中の橋は明後日から徒歩でも渡れなくなるらしい。歩く時間が減るとものを考えることも少なくなる。バートルビーは最後中庭で死ぬ。全てを受動的に、消極的に、
しないことを選んだ彼は、もはや植物のそれを超え、何も考えず、永遠の潜勢力のなかに入ることになる。

ものを考えるということは世界に溶け込むことへの抵抗でもある。しかし同時に、「何も考えないほうがよいのですが」とバートルビーのように振る舞うこともまた、間違いなく世界への没入に対する抵抗なのだろう。

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