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あさ、言葉、不完全さ

いま日記を書こうとnoteを開いたところ↑の画面になっていた。今日の朝、なにか書こうと思い「あさ、」と打ち、乗り換えか何かで書きかけになったままだ。
あさ、僕は何を思っていたのだろう。時間の濁流に飲み込まれた出来事は、思い出せそうなまま忘れてしまう夢のように実際以上に美しく思える。

あさ、コンビニでコーヒーとランチパックを買った。店を出て数メートルの間にランチパックを無くした。焦って戻り店員さんに尋ねてしまったが、店員さんも我が事のように心配し探してくれた。ランチパックはなんと僕の服のポケットの中にあったのだが、ちょっと申し訳なく店員さんにはその事実を言えなかった。
それはそうと、人の善意を感じた瞬間であった。

あさ、今日は特に起きるのが辛く、30分遅く家を出ることのできる特急列車に乗った。700円余計にかかるのだが、布団の中の30分がそれで買えると思えば高くは感じない。特急列車で通勤するといっぱしの社会人になったように感じる。周りを見渡すとものすごい姿勢でくつろいでいる人や、ずっとくしゃみをしている人がいた。人間にはさまざまな種類がいて面白いのに、インターネットで話題になっているものはいつも、案外反応のパターンが数種類に収斂していくような傾向があるように思えて退屈だ。

これは今のSNSが反応のメディアだからだろう。人間が不完全な伝達手段である言語を使用している限り、何かに対する反応はどうしても有限のものに留まらざるをえない。こんなことを愚痴る僕にしたって、たとえば道影で急に驚かされたら「うわっ!びっくりした!」とか決まりきった反応をするに違いない。
バズりとそれに対する反応はこれと大差がないような気もする。

言語の不完全性を深く自覚している、たとえば詩は、それを読むこちらにも「その不完全さを引き受けよ」と迫ってくるものがある。それに対して日々流言するインターネット上の言葉は、「構文」などの形に典型であるように完全である。それは動物の鳴き声にちかく、鳴き声はそれを知るもの同士で過不足なく欲求などを伝えられる点において完全だ。
自分はその完全さから逃れていると言いたいわけではなく、僕もまたその心地よさに甘んじている。ミームや構文が引き起こすパターン化された反応は、多くの人と前提を共有しているという安心感をもたらすように思う。あるいは大学時代の友人と『まんが道』のセリフで会話し大笑いしていたのもそのような完全さによる楽しさの享受だろうか。

今日は歩いて駅から家に帰る。慣れ親しんだ道もいいけど、たまには違う道から帰ってもいいかもしれない。

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