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日記「深夜、ファミレス」2024.10.17
9時の電車に間に合うよう起きる。
車を駅近くの駐車場に止め、電車に乗る。
電車の中で『パピルスのなかの永遠』の続きを読む。
ふと思ったが日記を書くという行為は、1日のなかに存在した無数の出来事を現在から振り返りある一つの総体としてまとめ上げることだ。それがどんなにとりとめのない散文となっていたとしても、ある平面に固定された1日という標本であることにかわりはないだろう。
僕は日記をnoteで公開しているが、それもまた1日をまとめあげる際の指針に大きく影響している。外に出しても問題のない出来事、思考を選択して表面化し、そこまで推敲はしないものの最低限の体裁を整え公開する。
そう考えると、もしこの日記がしばらく続いたとして、その時点から過去を振り返るとき、想起されるのはこの編集されある程度整ったら記憶なのだろうか?日記をつける、つけないに関わらず記憶は相当程度編集されているとは思うが、それは無意識のうちに進行したものだ。意識的に編集された記憶が、のちのちどのような効果をもたらすのか楽しみなような不安なような心持ちである。
『パピルスのなかの永遠』を読みすすめると、声しか持たなかった言葉が文字を持つ革新について書かれている部分があった。その部分を読み、ふと画像生成AIについて思う。
いまイラストなどを生成するAIは、日本においてイラストレーターやデザイナーなどから猛烈な反発を受けている。
興味深いのは、画像生成AIを使ってイラストを出力している人が、そうした成果物を民主化の結果だと主張していることだ。なるほど確かに誕生からしばらくの間おそらく文字も一部の特権階級のみが使用できるものであったのだろうし、パピルス、羊皮紙でできた本もまた同様だろう。
文字は幾多の技術革命を経て、完全に民主化し今ではほとんど全ての人の自由になるものとなっている。
文字と比較すると、絵画はいまだ一部の人間のみが扱える技術のように捉えられている。そして、画像生成AIはその一部の人間の努力にただ乗りし暴力的にトリクルダウンを行なっているとAI反対派は言う。
大企業の技術力、インターネットインフラを利用したイメージの網羅的学習には当然批判すべき問題はあるように思うが、画像生成AIが解き放った「絵の民主化」の流れは正直もう止めることはできないだろう。
ただ、ひとつ思うのは、一握りの層による絵の寡占など元々なかったのではないかということだ。子供がみなそうであるように、絵を描くことそれ自体はなんら特殊な技術ではない。だとすれば画像生成AIが危機をもたらしたのは、流通量の多いあるイメージ様式の習熟という限定された領域に過ぎないのではないか。書いてみて思ったがあまりにも自明なことを言っているかもしれない。
初期の写真が絵画の模倣をしていたように、今の画像生成AIは写真やイラストレーションの達成を模倣している。しかし、カメラのもつ潜在的な力、その可能性が報道写真や昨今のスマートフォンのカメラによって十全に解き放たれたのをみると画像生成AIがその特有の可能性を発揮しきるにはまだ時間がかかるような気がする。
脳に直接干渉できるようになって初めて生成AIの真価が発揮されるのではないか。あらゆるイメージが脳内に直接生成されるような技術が開発されて初めてメディウムとしての生成AIは完成するのだろう。
つらつらと面白みのないことを書いてしまったが、それもまた日記のリアルとして記録しよう。
仕事が終わり、19:30ころ家に着く。友人から連絡が来る。僕が力になれそうな用事だったので深夜までファミレスで一緒に作業する。深夜のファミレスというのは照明の黄色い光り、街の静けさ、客の会話、気怠そうな店員、それらが渾然一体となった一つの閉じたユートピアを感じさせるから好きだ。