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長い手紙 その4 -他者とつくる時間-

1954年8月28日

拝啓 

ご無沙汰しています。いかがお過ごしですか?
こちらは昨日から、長い雨が降っています。どこか夏の終わりを思わせるような、腕に当たる飛沫が冷たい雨です。私はさきほど郵便局で原稿を送り、林のなかをぶらりと散歩してきたところです。
今は部屋に戻っていて、窓際では、乾かしている服がすこし揺れています。

山林というものは、特に雨の日に美しい姿を見せてくれることが分かりました。私は「うつくしい」ものへの感覚が疎いのですが、そんな私にも感じとることができるほどに、すがすがしい気分になります。

たとえば、ちょっとした脇道が森に続いていて、これはと思って足を運ぶと、すぐに葉と枝の天井に囲まれることになります。そこでは雨の調子が弱まって、葉が滴の重みで身体を屈めるような動きが、森ぜんたいで起こっているのを感じられます。ひとの呼吸のような収縮運動が、さらさらという音を立ててなされています。すこし思い出すだけでも、幸せな気分になります。


今日の手紙で考えたいのは、「自分」というものを引き受けていく方法です。言い換えれば、いかに外的に意味を与えてくれるようなものの誘惑に屈せず、私たちが生きていくかという問題です。これまでにお伝えした私の人間観が前提になる、くらいのつもりにお考えください。

さて、自分を引き受けるに当たっては、「他者」というものについて考える必要がある気がします。

何気なく「他者」と書いたものの、「他者」とは何でしょうか?
これは特に哲学的な問いかけではなく、素朴な疑問です。「他者」という言葉には、どこかしら嘘くさい響きがあります。それは、さまざまに存在している人間たちを、十把一絡げに把握しているところです。まるで、対義語である「自己」が唯一であることを示しつつ、まわりの人間をすべて同じ質のもとでのみ理解しているような、そんな傲慢さがある気がします。(それでも他に適切なことばを思いつくことができず、とりあえず「他者」を使い続けますが…)

私にとって重要だと思えるのは、そんな他者を個として理解する姿勢です。
柳田国男さんが『都市と農村』という著作の初めに、「勉強をしているとついつい、概念の虜になってしまう」という趣旨のことを書かれていますが、私が考えているのは、それに近いことです。

あなたにはこういった経験がありませんか?
ある人の著作を読んで非常に感動し、実際にその人に会いに行く。しかしその当人は、自分が頭の中で思い描いていたのとは全く違う人物だったという経験です。少なくとも私は、これまでに何度もそのような経験をしてきました。
おそらくそうした時、間違っても相手が自分の「期待」にそぐわなかったことを、相手の責任にすべきではないのです。むしろ、そこで感じた違和感や差こそが、その人が個として存在している証なのではないでしょうか。

たとえば私はここまで手紙を書いてきましたが、東京で私と会った時、私はあなたが拍子抜けするくらいに奇抜な喋り方をするかもしれません。それも十分にありえることです。なぜなら、今ここで繰り広げられている言葉というものは、有限であるからです。

私は、文章で私のをすべて書き出すことはできません(もちろん、文章でなくても、できません)。私は無数の時間の束であり、あなたの前に現れたとき、あなたにとって私は、少なくとも無数に情報を持った存在として見えているでしょう。これは私とあなたの立場を入れ替えても通じます。つまり、私にとってあなたは、数えきれない要素と、要素をまとめる力を持った存在として見えているのです。あなたの「要素」とは、あなた自身にとっては「あなたが選び取った時間」であり、私にとっては「特徴」「情報」などとして現れるものです。

こうして考えたとき、他者というのは否応なしにかけがえのない存在であることが分かります。端的に言って、あなたは私の想像力の届く領域の外にも広がっている存在です。だから私にとって、他者は何よりも個人として理解するのが重要であると感じられるのです。(注1)

(※あなたの手紙などの「書き言葉」は、あなた自身に発するものではありますが、それは私の声を通じて私のなかで理解されるようです。これによって、上に述べたような、文章と人柄の不一致が起きるのでしょう)

***

いつもより短いかもしれませんが、今日はこの辺りで終わりにしたいと思います。というのも、実は午後に、東京の社員が出張に来るようなのです。二人で仕事をこなして、明日にはいい報告ができるようにします。

敬具 

1954年8月28日
Y・K


1954年8月30日

拝啓 

明日と言いましたが、明後日になってしまいました。
昨日はやはり部屋にカンヅメで、蒸し暑いなかで雨を見ながら、索引の作成を一日中行っていました。30を過ぎた独身男性が二人で、黙々と作業をしているのは、軽井沢の空気にそぐいませんね。

お伝えしたか分かりませんが、私たちのは現在『世界の名著』という作品のシリーズを刊行しようと躍起になっています。これは文字通り、世界の名著―聖書やプラトンから、ハイデガーやサルトルまで―を、美しい装丁で日本語訳して出版するという、戦後日本にふさわしい計画になっています。

新刊は菅谷さん家族のような、経済的にも恵まれた方の「愛蔵用」になるかもしれません。しかし私の狙いは、数十年が経過したころ、神保町あたりの古本屋で、埃をかぶった『世界の名著』たたき売りされ、地方から上京してきた貧乏学生が買うという状況です。そのころには、より廉価な文庫本が主流になっているかもしれませんが…。ともかく、あくまで個人的な野望として持っておく分には、悪くないと思いませんか?

***

一昨日は、他者が持っているかけがえのなさについて記したように思います。それでは、このようにかけがえのない他者と、どのように接して生きていくことが望ましいのでしょうか。

ふたたび個人的な経験に出発することになりますが、私には、他者と時間をつくるということが求められるように感じています。そしてそのためには、他者がかけがえのない存在であるということを信じる必要があります。しばらく前に「信じることこそ、私たちに残された無茶だ」と言いました。その意味では、集団ではなく個人を信じるということが必要なのかもしれません。

この部分は説明が簡単ではないので、少しずつ考えていきましょう。
まず、個人を信じることは、具体的な人間を無条件に信じてしまうことではありません。恐らくそれは「逃避」です。相手を偶像化することによる思考の停止です。実際には、個人を個人としてではなく、自分にとっての手段・モノとして見ている態度であり、望ましくありません。

むしろ、あなたが会った人間が、あなたと同じように世界をまなざしている領域やポイントがあるということを信じるのです。ここで「他者にも、それぞれの時間があり、時間を留める輪がある」という風に(私の人間観に即して)言わなかったのは、次の理由があります。つまり、それぞれの人には、私の人間観に相当する仕組み―理解の仕方、個人的な哲学、美学でしょうか―を持って生きている訳で、その内実は異なる可能性があるのです。したがって、私が他者を個人として信じると言ったのは、他者が個人として、ある人間観を持ちつつ、折り合いを付けながら世界の中で生きているというその存在の形態を信じるということなのです。回りくどくて申し訳ないのですが、この姿勢が重要なのだと思います。

***

そして、この姿勢が互いに共有された後、他者と時間をつくるという現象が発生すると思っています(ここからは、再びまた私の人間観に戻ることになります。ご了承ください)。私の考えでは、私は複雑に折り重なった時間の帯のようなものです。そして、他者と接するということは、私にとって、新しい質の時間が生まれる経験です。すなわち、他者と出会うことで、私が日常を送っている時間からの断絶・切り替えが起こります。

そこにおいては、時間の束である二人が、それぞれの時間を持ち寄って、新しい質の時間が生まれます。いわばふたりの時間が染み出しているわけです。そうしてかけがえのない個人が二人で出会うことで生まれた時間は、おそらくかけがえのない質を備えたものになるでしょう。そこで何が行われるかは、あえて限定することはしません。たとえば球技であるかもしれず、討論であるかもしれず、愛の会話であるかもしれません。ですが本質的に、新しい時間を他者と生むという経験が生まれています。
生み落とされた時間は、私たちが別れた後でも、個々の私たちの帯のなかへ取り込まれていきます。「私は他者によって存在している」という予言めいた不思議な言葉も、この文脈でなら、少し意味が分かるような気がします。

***

最後に、社会システムについて書いておきたいと思います。私は一貫して個
人の立場を擁護しており、社会について何も語っていないからです。元から世間知らずであり、ここでも何か洞察を言えるとは思いませんが、考えていることを書いておきます。

私は、「社会」は、人間観を省いた交流を成立させる道具という側面を持っているのではないかと考えます。社会がある事で、個人的な哲学や美学に左右されず、私たちはより「バランスよく」生きていくことができるからです。

しかしこのことは、社会に生きている私たちが「個人的な哲学や美学を持たなくてよい」と言っているわけではない気がします。社会と個人は少し異なった相を持っており、同じ方角を向くことより、対立することのほうが多めなのではないでしょうか。(注2)

***

同僚の山岡君が食堂から戻ってきました。もうすぐ仕事も佳境です。
あなたと会えるのを楽しみにしています。

敬具 

1954年8月30日
Y・K


注1.ここは、E・レヴィナスやJ・デリダの考え方を参考にしている。谷口龍男『<イリヤ>からの脱出を求めて』(第九章 顔)、守中高明『法』(第二章 歓待の掟--他性・言語・公共空間)ほか。
注2.大学1―2年のときに授業を取った、友成真一先生『問題は「タコつぼ」ではなく「タコ」だった!?』を参考にしている。

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