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ライオン迷宮

[1] 始まりを告ぐ声


 夜明け間もない空は澄み渡り、深い森に囲まれた屋敷はひっそりと静まり返っていた。

 だが、今しも1人の男が靴音も高く石の廊下を駆けていく。

 窓の外に映える夜明けなど眼に入らない様子で、しきりに背後を気にしてはゼエゼエと息をあえがせてもつれる足を必死に動かす。

 男の年の頃は20代半ば、細面の優しげな印象がある。

 薄汚れてはいるがスーツ姿だった。

 広い廊下には人気はなく、男の足音と息遣いばかりが響く。

「じょ、じょうだん、じゃ、ない……!」

 男はあえぎながら息を吐き出し、さらに追い立てられるように足を動かした。

 等間隔に並ぶドアは、いずれ上等な樫材だが――鍵がかかっていて開かない。

 かといって、男を白々と照らす朝日が差す窓も、どういう素材なのかガラスにはヒビひとつ入らない。

 仲間とともに数々の脱出法を試して、それらはことごとく失敗に終わった。

「どうして……」

 言いかけた男の視界がぐにゃりと歪む。

 こんなはずではなかったのに……!

 この屋敷で数日過ごし、その後は既定の報酬を受け取るだけだった。

 寄せ集めの仲間たちだったが、彼らはいずれいい奴だった。

 それが――あいつのせいで。

「――行ってしまうの?」

 耳に響いたのは、とても可愛らしい女の子の囁きだ。

 だが、男は聞くなり、それまで以上に足を速めて廊下を急ぐ。

 19世紀のイギリスの邸宅を移築したという屋敷内部は、迷路の如き様相を呈している。

 中庭に面した窓を左に見ながら、右にドアが並ぶ壁――そこここに凝った意匠がほどこされているが、そんなものは男にとってはどうでもよかった。

 ―――逃げなくては!……このままでは、自分も……!

 脳裏に蘇った血みどろの光景に身震いし、男は膝をガクガクさせながら廊下の端にたどり着いた。

 この先のドアは、確か――。

「……そっ……そんなっ……?」

 男はドアを開け放つなり、眼にした光景に眼を見開いた。

 そこは吹き抜けのフロアへと続いているはずだった。

 手すりから見下ろせば、1階の玄関のドアが見下ろせる。

 それが――ない。

 ドアの空間は一部の隙もなくふさがれていた。

 まるで大昔からそうしてあったように、石壁の表面にはカビすら生えている。

「……そんな」

 男は呆然としつつも、とっさに携帯電話を取り出した。

 祈るような思いでアンテナの有無を確認する。

 1本、2本――つながってくれ!

 もどかしげにボタンを押すと、相手は意外にもすぐに出た。

「もしもし、俺だよ!」

「……タッちゃん? どうしたんだ……?」

「助けてくれ、サトル。俺はこのままじゃ……」

「――いけない子ね。ルールを破ったわ」

 瞬間、男の視界が真紅に染まった。

 全身を揺さぶる衝撃に翻弄されるまま、痛みを感じる間すら与られずに、男は静かに暗黒の闇へと転がり落ちていく。

 窓の外には、鮮やかな朝焼けが広がっていた――始まりを告げるように。



『――した者は、楽園から追い出される』

 ふと頭に浮かんだフレーズに、少年は廊下の途中で足を止めた。

 足元にまとわりつく子供の1人が、怪訝そうな顔でその顔を見上げる。

「どうしたの、暁(サトル)兄ちゃん」

「あー、別に……」

 暁はダルそうに返しつつ、両足に猿の子のようにしがみつく子供たちを見下ろした。

 1人は三つ編みのおさげ、もう1人はショートだが顔が同じだ。

 もっとも区別はつく。

 1人は真新しい包帯を頭に巻いているからだ。

「おい、双子……お前ら、重いから降りろ」

「ふたごじゃないよ、俺は進(ススム)だよ。兄ちゃん、遊んでぇ」

「そうだよぉ、あたしは歩(アユム)なの。遊んでよぉ」

「おんなじ顔でおんなじ声でおんなじこと言うじゃねえか。双子で充分だよ」

 暁がかまわずに歩こうとすると、双子はそろって顔をしかめて腕に力を込める。

「暁兄ちゃーん」

「わかった。わかったから騒ぐな。今何時だと思ってる」

 腕時計をちらと確認すると、時刻は午前5時10分過ぎ――何が悲しくて子守をしているのやら。

 半ば諦めのため息をついた時、なんの前触れなく携帯電話が鳴った。

 スーツのポケットに手を突っ込み、双子たちをひと睨みして出る。

 双子たちは顔を見合わせて口を閉じた。

「もしもし、俺だよ!」

 相手の大声と、その急いた口調に驚いた。

 寝不足の頭を回転させ、なんとか相手の名前を引っ張り出す。

 とりあえずこう返していた。

「……タッちゃん? どうしたんだ……?」

「助けてくれ、暁。俺はこのままじゃ……」

 次の瞬間、暁は耳から携帯電話を離していた。

 異様な声が響き渡ったからだ。

「――いけない子ね。ルールを破ったわ」

 女の子の声?

 だが、それきり何も聞こえなくなってしまった。

「……タッちゃん?」

 聞き返してみても応答はない。

 暁はしばし迷った後、一旦切ってかけなおしてみた。

 ところが、今度は圏外の表示が出るばかり。

「なあ、双子」

「なぁに?」

 と、2人はウキウキした様子で暁を見上げる。

 口を開きかけ、「なんでもない」と首を振った。

 こんな時に意見を聞くには、五歳の二人は幼すぎる。

 『助けてくれ――』

 いつもならば『冗談』と笑い飛ばすところだが、相手の口調と気配がそれを許さない。

 緊張感と震える声には、確かに助けを求める悲痛な響きがあったからだ。

 何があったのだろう?――そんな問いに、先ほどの謎めいたフレーズが重なって響く。

『――した者は、楽園(エデン)から追い出される』

 何をした者が、楽園を追われるのか――どうしても思い出せない。

 そもそも双子を足にぶら下げた早朝の廊下、いつもなら夕方にかけてくる相手が、どうしてこんな時間に自分に助けを求める?

 相手――達彦(タツヒコ)は、暁の友達の兄にあたる。今年18歳の暁に比べて6歳も年上だ。

 名の知れた会社に勤めたことで、友達ともども疎遠になって久しい。

 そういえば今日は4月2日――さては、1日遅れのエイプリルフールか。

 考えていると、進が暁を見上げて唇を尖らせた。

「兄ちゃん、早く遊んでよぉ」

「ええい、お前ら……いい加減、俺から離れてくれ」

 足にしがみついたままの双子を睨んでいると、廊下の先から漆黒のスーツの男が現われた。

 優しげな面差しの青年は喪服の襟元をなおしつつ、暁たちを見つけて眼を細める。

「やあ、暁君。進君と歩ちゃんもおはよう」

「おはようございます、和真(カズマ)さん」

「おはよぉございまぁす、和真叔父ちゃん!」

 暁が一礼するのにならい、双子たちが声をそろえる。

 和真も「ウン」と頷いて、何かに気づいたように窓を見た。

「……涙雨だねぇ」

 しみじみと言う和真に、暁は「はあ」と返しつつ思う。

 ―――あんな男のために空は泣かない。

 家からはさほど離れていないだろうに、窓からの眺めは空模様のせいか、見知らぬもののように映る。

 それとも、それは――今の状況がそう感じさせるのか。

 ついでに振り返った控えの座敷には、親戚たちが疲れた顔で居眠りしている。

 寝乱れた黒のスーツに同じ色のネクタイは、空模様には似合いの和真や暁と同じ喪服だった。

 通夜だから。

 そう心の中で呟く自分も黒衣のままだ。

「……暁君、疲れただろう。僕が代わるよ、その……お父さんのご霊前に」

「ああ、はい。わかりました……おい、ちょっと放せ」

 口調の変化を察してか、双子たちは素直に暁から離れる。

 暁は和真に軽く頭を下げ、廊下を歩きだした。



 ぽつぽつと人もまばらな斎場――白い菊に彩られた祭壇を前に、暁は線香を上げて手を合わせる。

 辺りには喪服姿の大人たち。

 いずれ親戚らしいが、顔はおろか名前すら覚えていない。

 暁は遺影の笑顔を見て、少しだけ吐き気に襲われる。

 とはいえ顔に出さないよう、すぐに視線をそらして席を立った。

 死体発見の混乱からこっち、一睡もしていなかった。

 いいかげん寝不足も限界だが、一応は父親の葬儀なのでおざなりにもできない。

 面倒をかけてくれる――内心そう漏らして息をつく。

「おはよう、葛葉暁(クズハ・サトル)君」

 やおら背後から声をかけられ、暁はため息をつきつつ振り返る。

 予想したとおり、そこには若い男が立っていた。

 短髪・精悍な顔立ちに鋭い眼つきの堂々たる巨漢だ。

「……なんか用?」

 不機嫌そうに返すと、男は漆黒のスーツの腕を組んだ。

 スーツの上からでも鍛え抜かれたものと知れる長身、立ち姿はモデルのようにサマになっている。

「本当に嫌われているなぁ」

 悩ましげに苦笑しつつも、暁をヒラヒラと緊張感のない手つきで招く。

 仕方なく傍まで近寄ると、男は機嫌よさそうにうなずいた。

「大変だったな」

「それ、イヤミ?……知ってるだろ、別にどうでもいいって」

 男は「まあね」と悪びれたふうもなく辺りを見まわす。

「――それで、今度は何? 財前惟年(ザイゼン ノブトシ)警部補」

「お父さんの検死解剖の結果が出たんで、知らせておこうと思ってな」

 財前はさらりと言い返し、暁をじっと見つめる。

 暁は冷めた無表情でその視線を受け止めた。

『お父さん』にも『検死解剖』にも、これといった感想は湧かない。

 睨み合いはすぐに終わり、財前のほうが息をついて眼をそらした。

「傷の具合はどうだ? アンタと進君のことだけど」

「……俺のほうはくっついたよ。抜糸は午後。進も痕は残らない」

 そうか――と、財前は暁に視線を戻した。

「少し話を聞かせてもらえないか?」

「後にしてくれ。見てのとおり実の父親の葬儀だ……少しは遠慮してくれよ」

 不機嫌そうに財前を睨むと、財前のほうも睨み返してきた。

 そこは刑事だけあって、鋭い眼に宿る威圧感には有無を言わせぬ迫力がある。

「アンタのお父さんは殺されたんだぜ。なのに、アンタはちっとも悲しそうじゃないんだな」

「悲しくないからな」

「……っ……アンタ……!」

 暁の淡々とした答えに財前が鼻白む。

 だが、さすがに辺りを気にしてか、すぐさま息を整えてポケットから何やら取り出した。

「……とにかく、一度話を聞かせてくれ。いつでもいいから」

 財前が差し出す名刺を受け取って、暁は視線も落とさずにポケットに押し込んだ。

「それだけなら」

 くるりと背を向けると、背後で財前がため息をつくのが聞こえた。

 出口に向かう途中には、決まり悪そうに和真が立ち尽くしていた。

 どうやら話を聞いていたらしい。

 和真は眼が合うと、心配そうに暁に近寄ってきた。

「……暁君。またあの刑事に何か言われたのかい?」

「父さんの死因がどうとか……検死結果が出たそうで」

 検死――と、呟く和真の脇を抜け、暁は廊下に出た。

 会場に入りきらない献花台が廊下に並べられている。

 甘い花の香気が立ち込めていた。

 あんな男にも花は捧げられるんだな、と冷めた頭で考えた。

 葛葉稔流(クズハ・ミノル)――それが死んだ男の名前だった。

 父親、死因、刑事、殺人……そんなことはどうでもいい。

 暁にとって重要なのは、この先二度とあの男の顔を見ずに済むということだ。

 それよりも、達彦のほうがよほど気にかかるというもの。

「……暁さん」

 控えめな呼び声に顔を上げると、廊下の先に喪服姿の痩せた女が立っている。

 わずかにやつれてはいるが、線の細い女は美しく見えた。

 その足元には進と歩がいる。

「お義母さん、おはようございます」

 きちんと一礼し、暁はすかさず義母――花帆(カホ)の傍に近づいた。

「……顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」

「暁さんこそ、傷の具合は?」

 小さな声で問いかける花帆は、困ったような顔を暁に向ける。

 眼が赤いのは、喪主としての通夜の寝不足のせいばかりではなく、本当に悲しんで涙したせいだ。

「……俺は平気です。湊(ミナト)と勉(ツトム)は店から戻りましたか?」

「今は休んでいます。あなたもどうか無理しないでください」

 そう言う花帆のほうが倒れそうに心もとないが、その言葉には素直に頷いた。

 すかさず駆け寄ってきた進と歩が、暁の腰にまとわりつく。

「……では、俺も少し休んできます。お義母さんも無理しないで」

「あなたも、です。暁さん」

「はい」

 しっかりと頷き返し、暁は進と歩――幼い弟妹の手を引いて歩き始めた。

 少し歩いた先で、追いかけてきたらしい和真が横に並ぶ。

「僕も一緒に行くよ」

 優しげに微笑みかける若い叔父に、暁は「はあ」と曖昧に返す。

「そういえば、暁君。以前貸した本のことなんだけど」

 和真の言葉に、暁はあのフレーズのことを思い出した。

 そうか、借りていた本がネタ元か。

「……和真さん、ひとつ訊いていいですか?」

「なんだい?」

 キョトンとした和真をちらと見やり、暁は先を続ける。

「借りた本の中にあったあの男、どうして楽園を追い出されたんですか?」

 すぐに思い至ったらしい和真が、「ああ」と眉を下げて廊下の先を見やる。

「人類最初の身内殺しだよ」

 柔らかな声に、頭の芯がすうっと冷えていった。

「あの本は返さなくていいよ。よかったら暁君が持っていてくれ」

 またしても「はあ」と曖昧に頷きつつ、密かにため息をついていた。

 ───『人類最初の身内殺しだよ』

 しっとりと廊下を包む雨音を聞きながら、暁は無表情に歩き続けた。

 その時、廊下に電子音が鳴り響いた。

 慌てた様子で携帯電話を取り出したのは、暁ではなく和真だった。

 眼で合図して背を向けるさまを見ながら、暁は借りていた本のフレーズを正確に思い出していた。

 『――カインは去りて、楽園(エデン)の東……ノドの地に住めり』



 曇天から降り落ちる雨に街はぼんやりと霞んでいる。

 暮れゆく空は時の流れを感じさせず、通りに行き交う傘の数だけが増した。

 さらにテールランプが彩りを添える。

 それだけのこと。

 つぶやいて、女はため息とともにも耳元に意識を戻す。

「――と、いうことで全滅との報告を受けました。今回も『資格者』は現われません……とても残念ですが」

「……そう。では、次はいつ補充できるかしら?」

 さらりと返した女に、相手はしばし沈黙した。

 先ほど『それだけのこと』と断じた外の眺めに、はからずも電話の相手すら重ねてしまう。

『資格者は現われない……』

 ガラス張りのビルの一室、見下ろすビルの眺めに女は軽く唇を噛んだ。

「聞いているの、月見里(ヤマナシ)。難しいことを要求しているのは承知しているわ。それでも、今は急ぐのよ。一刻も早く次の『餌』を用意してちょうだい」

「は、はい……」

 まだ若い男――月見里の声は、わずかにためらうような口ぶり。

 近くに聞かれたくない相手でもいるのだろうか。

 こんな早朝に、この男がそんな相手といるとは思えないが。

「わかっているわね? 九尾(クノオ)家の大事なの。急いで――」

「わかりました。その件につきましては、後ほどあらためてこちらから――」

 やおら口調を変えるなり、月見里は一方的に通話を切ってしまった。

 切れた発信音に息をつき、女はデスクのインターフォンを操作する。

 すぐさま現われたのは、年齢不詳の物静かな青年だった。

 ドア脇の観葉植物のように見事に気配がない。

「お呼びでしょうか、麻弥(マヤ)さま」

「……屋敷でトレースしていた通信記録、相手は何者なのか割り出せたの?」

 は――と、青年は繊細な顎を無表情に引く。

「名前と住所は把握しています……『押さえ』ますか?」

「そうして、焔(ホムラ)。『あれ』の機嫌を損ねたくないわ。秘密を知る者は、すべて『餌』として送り込んでちょうだい」

 苛立たしげに言い放つ麻弥に、焔は慇懃な姿勢を崩さずに一礼した。

 音もなく部屋を出て行くその背中を見送り、麻弥はガラスに視線を移してそこに映る我が身に気づく。

 白い肌に真紅の唇、ゆるやかに波打つ髪、作り物めいた美貌。

 上等なスーツを身にまとい、上等な部屋で部下に命を下す――本当にそれだけのこと。

 九尾麻弥(クノオ マヤ)と言う名の、それだけの人間。

 死に瀕した一人の老人のために、どうあっても『あれ』が望む『資格者』を与えねばならない。

 そうしなくては――九尾家は滅ぶ。

 連綿とその名を守ってきた名家、幕末と戦後の混乱期を乗り切り――名声と権力と財力をほしいままにしてきた一族。

 それを可能にしたのは、先祖の1人のバカげた契約のせい。

 そう、たったそれだけのこと。

 つぶやいて、麻弥は窓の眺めに意識を戻した。

 どれほど高い場所から下界を見下ろしたところで、所詮人は神にはなれない――その証拠がこれだ。

 思いどおりにならない事態など、人間の日常には溢れている。



 暗くなり始めた商店街の通り、ぽつぽつと流れる傘――日が暮れてきた。

 水しぶきを上げて近づく車に、暁はとっさに進の身体をかばうように車道に背を向ける。

 傘を片手に引き寄せた弟は、まだ少しだけ泣いていた。

 だが、頭の包帯はガーゼに替わっている。

「……暁兄ちゃん」

 車をやり過ごし、暁は進の手を引いて再び歩き始めた。

「さあ、早くみんなのところに戻ろう。少し遅くなっちまったからな」

「ウン」

 そこで進は何かに気づいて、商店街の先に眼を向ける。

「――あ、兄ちゃんのオトモダチ」

 視線をたどった先に、古びた酒屋の軒下に見知った顔が立っている。

 気弱そうなラフな格好の少年は、暁を見つけてパッと顔を輝かせて近づいてきた。

「……保(タモツ)? どうした、そんなところで」

「暁、よかった。会いに行こうと思って……」

 志水保(シミズタモツ)は、今朝早くに携帯電話を鳴らした達彦の弟だ。

「……タッちゃんに何かあったの?」

 訊かれた途端、保は顔をくしゃくしゃにした。

 ―――やはり、何かあったのか。

 そんなことを冷静に考えつつ、暁は進と保を見比べて店を顎で示した。

「とにかく中に入れ……って、言いたいけど」

「ウン、わかってる」

 保はすぐさま目元を拭い、事情を察したように店を振り返った。

『葛葉酒店』と書かれた看板の下、青いシャッターは閉め切られたままだ。

 さらには、警察が張り巡らせた『警視庁・立入禁止・KEEPOUT』の黄色テープが張られていて物々しい。

 殺人事件の現場なのだから、当然といえば当然なのだが――。

「……家の中は許可がないと入らせてもらえないんだ」

「ゴメン、お前も親父さんのことで大変だってのに」

 そこで保はオロオロと視線を泳がせる。

 察するに、よく考えずにここへ足を運んだらしい。

 とはいえ、それは暁も同じだった。

「別に大変じゃない。不便なだけだ。チビを病院に連れて行った帰りなんだけど……つい、こっちに足が向いたみたいだ」

「チビじゃないもん!」

 暁を見上げてすねたように唇を尖らせる進の様子に、少しだけ保の表情が和らいだ。

 病院に行くために、暁は進を連れて出棺と同時に葬儀を抜け出した。

 斎場に戻るはずが、同じ方向の自宅に足が向いてしまったのは、単に身についた習慣のせいだろう。

 もっとも予定より時間が過ぎてしまった上に、暁自身の抜糸にも時間がかかってしまった。

 今頃戻っても葬儀がどうなっているか――はなはだ疑問だ。

「そ、その……俺――」

「保、話は歩きながら聞くよ」

 まだ何か言いたげな保は、じっと暁を見つめてすぐさま頷いた。

 どこか追いつめられたような眼差しに、今朝の達彦の声音を思い出していた。

 さらにひとつ気がつく。

 どうして保は携帯電話を使わなかったのだろう?



 パネルを操作する保と暁の前で、微かな電子音とともにガラスの扉が開く。

「――すげぇな」

 眼を丸くする暁に、保は「ウン」とだけ答えた。

 高級感漂うマンションのエントランス、保は正面のパネルのボタンを押してエレベーターを呼ぶ。

 すぐさま開いた扉を眺め、暁はちらとエントランスホールを確認した。

 郵便受けに新聞がたまっている様子はないが、入居者を示すプレートは1階に1枚、2階には3枚、5階と6階に1枚ずつ――。

「……タッちゃんは6階に住んでるんだな……いいなぁ、眺めよさそう」

「えっ?」

 保が声を上げて振り返り、暁のほうがその緊張した様子に驚いた。

「なんだよ。さっき保が、6階のボタンを押したじゃないか」

「……そう、そうだよな。ゴメン、ちょっと神経質になっていてさ」

「そうみたいだな」

 そう返しつつも、硬い表情の保に内心息をつく。

 こんな顔していただろうか?

 保とは達彦と同じく、会うことは少なくなったものの――以前、兄弟ともども遊んでいた頃には、2人とも陽性の気質でよく暁を笑わせてくれたものだが。

 それとも……。

 それだけ、達彦と保を取り巻く状況が深刻なのか。

 暁は斎場までの道すがら保から話を聞いた。

 その話を聞くうちに今朝の達彦からの電話が、エイプリルフールにかこつけたイタズラなどではないと理解した。

『――兄貴がいなくなっちゃったんだ』

 達彦が姿を消して1週間経つという。

 それ以前に達彦から『出張だ』とメールを受け取っていたことで、当初保はさほど心配していなかった。

 ところが、ほんの2、3日だと思っていた出張から達彦は戻らない。

 連絡もない。

「携帯にはかけてみたの?」

「携帯は使えない。圏外だ……それに、使うと変な車が出てくる」

 ―――変な車?

 暁がエレベーターの壁から背を離した時、目指す階層に着いたエレベーターが静かに止まった。

 音もなく開く扉の向こう、保はやけに慎重に辺りを見まわす。

 2人が降り立つと、広い廊下にやけに足音が響いた。

 人気はまったくない。

「……それよりも俺に付き合っていいのか? 親父さんの葬式だったんだろ」

「別に。もう葬式は終わってたし、俺もタッちゃんが心配だから……保に付き合うよ」

 実際、保の話を聞くうちに斎場に着いてしまったが、すでに斎場の片付けは始まっていた。

 暁は待っていた和真に進を預け、深刻そうな保に同行することにしたのだ。

 保は暁を見つめて眼を潤ませると、どういうわけか暁の手を取って深々と頭を下げた。

「え? なんだよ。何やってんの……?」

「ありがとう、我が友よぉ」

 保が泣き笑いのような顔を上げ、暁は思わず眼を細めて苦笑してしまった。

「……ざーとらしくね? フツー言わないよ、そんなこと」

 暁につられて保も笑った。

 少しだけ、以前の保に戻ったようだ。

 ホッとしつつ、廊下を歩きだす保の後に続く。

 やがてたどり着いたドアの前、保が合鍵を取り出してノロノロと開ける。

 確認してみたところ――ここは角部屋で、隣のビルの外階段が手すりの向こうに迫っていた。

 日当たりはよくなさそうだし、暁は何やら違和感を感じる。

 それは高級そうなマンションの外観にそぐわない暗い雰囲気のせいなのか。

 そんなことを思っていると、保はドアを開けて暁を振り返った。

「――入って……って、俺の部屋じゃねーけど」

「ああ」と生返事をしつつ、靴を脱いで保に続いた。

 つややかなフローリングは、留守にしていたわりには埃ひとつ落ちていない。

 ―――変だ。

「え……な、なんだよ、コレ……?」

 廊下の途中で異変に気づいた保が、リビングへ続くドアを勢いよく押し開けた。

 つんと鼻に届いたのは、ミントを思わせる爽やかな香りだった。

 呆然とする保の肩越し、暁は家具も何もないがらんとした空間を見渡した。

 引っ越したというよりは、もとより人など住んだことがないかのようだ。

「……部屋、間違ったのか?」

「バ、バカ言え、鍵が……」

 だよな――と暁は身を屈めて床の上をひと撫でし、「ふうん」と鼻を鳴らした。

「な、なんだよ、暁?」

「……この匂い、嗅いだことがある。業務用クリーナーだ。ここがタッちゃんの部屋なら、誰かが家財道具を運び出して……清掃会社にクリーニング頼んだらしいよ」

「え……」

 固まる保を振り返り、暁は困った顔で肩をすくめてみせる。

「俺にわかるのはその程度だけど……タッちゃん、何かマズイことに首突っ込んだの?」

「な、なんで? どうしてそんなこと――」

「弟のお前に何も言わずにいなくなるんだから、よほどのことがあったんじゃないのかな。でなきゃ、家族にも無断で部屋を引き払うなんて真似……タッちゃんがする?」

「しないしない」

 と、保は首を振るが、暁はもうひとつ違和感を感じていることがあった。

 隣のビルとの距離を考えるに、入口のセキュリティを突破するまでもなくマンション内へ侵入可能だ。

 しかもここは角部屋で、上下階に入居している気配のない場所だ。

 ひっそりと隠れ住むような印象が、暁が知る達彦のイメージと噛み合わない。

 ひたすらに暗くて陰気なのだ。

 それが違和感の正体だ。

 さらには暁の携帯にかかってきた、あの――。

 いっとき黙り込んだ時、なんの前触れもなく玄関チャイムが鳴った。

 2人が顔を見合わせる間にも、玄関のドアが開いて乱雑な足音が聞こえてきた。

『マズイことに首突っ込んだのは俺かな』と、暁はちらりと思った。

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