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脱出せよ

 遠くで電子音が鳴っている。

 少しの間、一定のリズムを刻んで――すぐに止んだ。

 音に導かれるみたいに、意識がぬるい水底から浮かび上がる。

 ところがゆっくりと瞼が開いても、そこにあるのは漆黒の闇だ。

 ―――いや、違う。

 眼の前になにかが――柔らかな布状のものが掛けられている。

 それだけでなく、ズキリと頭に痛みが走って、思わず呻いた。

「ううっ……」

 自分の声とは思えない、ひどくしわがれた声が漏れた。

 喉もカラカラだ。

 頭痛に歯を食いしばりながら、顔の前の布を払いのける。

 まず目に入ったのは薄ぼんやりとした闇だ。

 首をめぐらせてみたところ、部屋の隅にあるフロアランプが唯一の光源で、家具や調度品は輪郭がわかる程度の明るさしかない。

 自分が横たわったベッドも含めた空間は、塗りこめたような漆黒の闇の中に沈んでいる。

 部屋の壁の一方を占める大きめの窓の向こうも真っ暗だった。

 ざっと視線を走らせてみて、まずまっさきに疑問が浮かんだ。

 ―――ここ、どこだ?

 目に映るものすべて……見覚えがない。

 またズキリと頭が痛んで、とっさに片手を頭に当てつつ、ゆっくりと慎重に身体を起こしてみた。

 汗をかいたのか、触れた髪が妙に湿っている気がしたが……それはさておくとして。

 身に着けているのはグレーのスーツだ。

 ストライプのネクタイに白いシャツ。

 靴下は紺色――これもいつ身に着けたのか、まったく覚えがない。

 不意にとんでもないことに気がついた。

 自分の名前。

 生年月日。

 住所――自分にまつわる記憶一切が……『ない』。

 考えるほどに、ズキズキと頭が痛む。

 ―――この頭痛のせいか?

 ひょっとして寝ている間に、脳内出血でも起こしたのか。

 それとも事故に遭った?

 いや、それならどうしてスーツのまま寝ている?

 ここは俺の家なのか?

 思いつく疑問を脳内に並べたてているとき、再び電子音がして部屋の隅でなにかが光った。

 一定のリズムを刻む音楽の一部らしき電子音にも聞き覚えはないものの、それが携帯電話が着信を知らせる音だということはわかる。

 チカチカと部屋の隅で瞬く小さな光を見つめ、頭痛が復活しそうな急な動きを避けつつ、かなり慎重にベッドから降りた。

 のろのろと進む間に光と電子音が途絶えたが――場所は覚えている。

 部屋の隅で窓の下に置かれた観葉植物の影だ。

 パキラの葉陰に、目当てのものを見つけて拾い上げる。

 軽く画面をタップすると、何件もの着信メールがあった。

 だが、送信者の名前を見るより先に、送信日時を見て眉をひそめてしまった。

「そんなバカな……」

 思わず漏れた言葉だったが、それもそのはず――。

 送信日時は2064年12月23日――40年後からきたメールだったからだ。

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