不登校の“レッテル”にひそむ親の自己否定
ちょっといい気になってたな。うまくやれてるつもりだった。
息子さんにどうかな?と、友人が提案してくれた不登校や引きこもりの子たちが集まる団体の短期合宿。一度はありがたくお断りしたんだけど、その後いろいろあっていろいろ考えて、お子さんがそこの卒業生でご自身も活動を手伝ったりしているその人に詳しく話を聞いてみた。
息子が学校に行きづらくなった理由は、考えようと思えばいくらでも思いつくし、何もないといえばまったく何もないとも言える。
「不登校」だとは、正直まだまったく思っていない。だから、そういう人たちが集まる場所に対して無意識に先入観をもってしまっていた、、、らしい。そんな私の考えすべてが「思い込み」だった。
合宿に行かせることにどんな問題がある?と問われているような感覚になり、私自身が「不登校や引きこもりと一緒にしないで」と思っていることに気づいた。いや、正確に言うと、一緒にしたくないのはなぜか、に気づいた。それは“ちゃんと子育てできていない”と認めることだ、と思っていた。お母さんのせいじゃないよ、とか、その子は人一倍繊細なんだよ、とか、わかっているつもりだった。でも、全然。実はどこまでも他人事だった。いろいろ大変な家庭はあるけどうちは大丈夫、だった。そこをどんどん突きつけられているような気がして、居心地が悪くなった。
居心地が悪くなる?!こんなに自分を整えてきているのに?
そう。まだまだだった。整ってきていることが嬉しくて、自分のセッションが人にとって価値あるものになっているのが嬉しくて、いい気になってた。「人より」整っているし、「人より」良いセッションができるって。無意識に「人より」があった。だから、「人より」ダメ、という相対的評価を自分で勝手にして、勝手にドギマギしてしまった。私自身が、存在承認できていなかったんだよね。
さらには、短期合宿に行かせたとして、帰ってきて何食わぬ顔で学校に行ければいい、という期待を口にした途端、「行けなかったら、どう?」と問われた。いたたたた、、、そうじゃんね。学校に行けるようになるために合宿に行かせて、変わらなかったら? 期待を裏切られた気がしてしまう私、そして、期待に応えられない自分を責めてしまう息子、という図が浮かぶ。
今、息子は「学校に行きたい」「友だちと遊びたい」「勉強したい」という思いと、体が思うように動かず行けない、という状態の狭間で毎日闘っているんだ。その辛さを、私以外のどこかで発散させてやらなければいけない。子離れできない私と、優しすぎて私の愛情をそのままに受けとめてくれる息子の関係の中で、その必要性はじわじわと感じていた。外へ…広い世界へ…。
外へ出て、私の価値観の枠を離れて、見えてくるものが必ずあるだろう。
そう気づきながらも、自分が許容できる範囲でしか息子の世界を広げてやれていなかった。
広い世界を知って、明らかに私とは違う「個」になれば、あとは息子が目指す方向を応援してやるのみだ。もしかして、それが学校に行く、ということでなかったとしても。
その覚悟をちゃんと持て…子どもが自分の手を離れるのを恐れるな…
直視するのを避けていたことに、はっきりと気づかされた。
またしばらくしんどい自分と向き合わんといかんな。。。
でも、彼女も言ってくれた。どうなっても親子は親子、大丈夫、と。
苦しくなるほど愛おしい息子。だからこそ、こんなに重たい母の愛情から、もう解き放ってやらないとダメだよね。
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