父の命日と命の「境界線」
今日は、父の8回目の命日。
父が旅立った日も、今日みたいに冷たい雨が降っていた。
「寒いし雨降ってるし、お墓参りはまたにしよっか」
というぐらいには薄情な娘と孫だけどw
毎日手を合わせてるし、時々ふらりとお参りにも行ってるから、そこは別に無理しなくてもいいんだぞーと、照れたように笑う父の笑顔が浮かぶのでよしとしよう。
「沖縄の海が見たい」と最後まで言っていた父のことをふと考えていて、
死んだら自由になるから、いつでも好きなだけ沖縄の海を見れるよなーと思ったけれど、肉体が死んで魂が全ての世界と一体化してしまうとしたら、「見る」という行為自体がなくなるんだよな、と。
「境界」があってはじめて何かと「接する」ことができ、
「境界」を超えることではじめて「対象物」を認識する。
幸せも不幸も美しさも悲しさも、「自分」という周囲との「境界」があってはじめて感じられるものなんだなと。
「死」は不幸ではないけれど、「境界」がなくなることで認識できる「対象物」がなくなるから、それを人は「無」と呼んだり「全体」と呼んだりする。
「境界」がなければ「存在」はない。
「終わり」がなければ「始まり」はない。
「夜」がなければ「朝」はない。
「闇」がなければ「光」はない。
そんなセカオワ的な哲学が頭をよぎる、命日の朝。
全てが溶け込んだこの世界で、もう少しだけ、「自分」という境界線と共に生きてみましょうかね。