『パンの文化史』
2021-03-23
『パンの文化史』第4章
3.パンと十字印 より抜粋
2013/舟田詠子/講談社
(原本1998/朝日新聞社)
マリア・ルカウ村では、「主よ、このパンと、このパンを食べる皆を祝したまえ!」と唱えながら、パンの底にナイフの先で十字を印す。
パンをひとまず神に捧げて感謝し、神の祝福をもらって初めて口に入れる作法である。
初切りの前にパンに十字を印すことは、たとえばスイスのサンクト・ガレン修道院の修道士、エッケハルト四世の『食卓讃』(10世紀初め)と題する詩の中でも、列挙したすべてのパンに十字がついていた。パンは人の力だけではつくれない。神の助けがあってはじめて、ムギはみのり、パンはふくらみ、焼きあがるのだという思いから、人びとは感謝を捧げ、神の祝福を得てはじめて、それを口にするのである。
(中略)一時間は焼かなければならない。しかもそのかんパンは焼くの目の前から消え、パン窯の奥深くに密閉されてしまう。発酵パンは、時間待ちの文化とでも言おうか、時にゆだねて待つうちに、無意識に人の抱く不安が願望を生み、それがしぜん、十字の印となっていたと思われるのである。(中略)うまい、まずいを問う技術論のみでパン文化をはかったとしたら、私たちは多くのものを見落としてしまっただろう。パンを作り、食べるという人間の営みそのものが何を語っているか、見つめていくべきはそのことではないだろうか。
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何度も何度も読み返している一節。読めば読むほどに、私には十字を切ることができない。
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