いつも通り石臼で粉を挽く。直径40cm、一周は約4秒に設定している。品質やその年の出来によって粒の大きさも変わるので、その都度、音と手触りで確かめながら微調整する。計ってみたら一周で2gだった。遅いと思いますか。速いと思いますか。ロール製粉なら一時間で数トン単位で挽ける。遅いと思いますか。速いと思いますか。(効率至上主義が~とかスローがいいよねっとかいう話ではありません) 私には、ついさっきまで麦の粒だったのが、石の間で磨り潰され、挽けた粉がただそこに在る、というだけの事
この世は演劇のようなもの、である。母を演じる者、父を演じる者、子を演じる者、酔っぱらいを演じる者、ダメな総理大臣を演じる者、それを非難する市民を演じる者。同様にプロレスもヒール(悪役)がいなければ盛り上がらないのだから、エンターテイメントを成立させる上で悪役は特に重要な一役であり、同様に悪役にブーイングをする観客役、さらにその客にブーイングをする観客役も含めて、必要な構成要素なのである。 演劇もプロレスも、当然人間が作り出し
2021-7-28 近頃は物事を捉える上で、「善悪」という二項対立よりも、「欲求」を土台として考えた方がよりシンプルに捉えられるので見通しがよく、クリアーな感じがしているなう。愛することも、奉仕することも、私(あなた)に備わっている欲求に基づいて動機付けられている。あァ、なにかスッキリする。スッキリしちゃう。「正義」という名の呪縛から解放される感じがする。どうですか。 例えば。おそらく海水浴帰りの客が道端に捨てていったであろうゴミが落ちているとする。私はそれを拾い持ち帰
2021-05-26 ごく限られた人生の、ごく限られた貴重な肉体的成熟期において、椅子に座っているか二足歩行でスマートフォンを片手に親指を弾いているだけで、果たして人間を謳歌しているといえるのだろうか。 人間のニューロン(神経細胞)の数は1000億ともいわれているが、私にはまだまだ使えていないニューロンと、繋がっていない回路が山のようにあり、見えていない景色が山のようにあるのだ。 三島由紀夫は、当時の学生運動に象徴される若者の精神的無教
2021-05-06 我が家には「お風呂に入るときに一個だけ食べ物を持っていっても良い」という条例がある。 今日はいちご温泉にしようか、と私が提案すると 「ねえ、とと。いちごにチョコレートを乗せようよ。そしたらチョコレートが喜ぶじゃん」 私は狼狽した。いちごとチョコを両方食べたいという、条例に反した自らの欲求を実現させるために、ストレートに感情を訴え泣き喚く手法よりもずっと有効な戦略、すなわち、チョコレートを擬人化し苺と一緒になれた時のチョコレートの歓喜を第一に想起さ
2021-04-28 山々の新緑が生命の伊吹を弾ませている。 その日々刻々と生まれ変わっていくような圧倒的生命力は、いつもの通い道だのについつい車を止めさせる。 思いめぐらすのは、この生命力の起源が、長く厳しい冬を堪え忍びながら、だれにも見つからぬ地下で淡々と根を張り巡らしていたことにあること。 このSNS時代にあって人は目に見える部分だけをみて、人を羨んだり蔑んだり、かんたんに成果だけを手に入れようとするが、見えぬところで淡々と継続し積み上げていくこと、見えないもの
2021-04-21 娘にはなるべく失敗の実体験をたくさん積み重ねてほしいと思う。失敗から立ち直る方法さえ学習できたら、私が死んでも、なにがあっても生きていける。 大人には経験と知識があるから先回りして止めたりしてしまいがちだが、見守りながら自分の身体で学ぶ過程を提供するのもまた親の役目だ。 火は熱いから絶対に触るな、というよりも、触ってごらんといって、手をかざさせたときに掌に感じる熱、反射で手が引っ込む感じを体感するほうが、ずっと効果がある。 情報が多すぎると、体
2021-3-31 「コミュニケーションの大目標は何か」という点について、日常の些細なことから最近よく考えます。 ある朝は保育園に行くのに「軽トラに乗りたい軽トラ以外では絶対に行きません」と号泣で乗車拒否をする先生。もう遅刻してしまう、頼みます我慢してお呉れと言っても、もはや錯乱状態で聞く耳を持たない。 しゃがみこんで目線を合わせると、号泣しながら「とと嫌っ!こっち向かないで!!」と両まぶたを思い切りつねられてからのビンタ5発。痛いのには慣れている。 私の目的は
2021-03-23 『パンの文化史』第4章 3.パンと十字印 より抜粋 2013/舟田詠子/講談社 (原本1998/朝日新聞社) マリア・ルカウ村では、「主よ、このパンと、このパンを食べる皆を祝したまえ!」と唱えながら、パンの底にナイフの先で十字を印す。 パンをひとまず神に捧げて感謝し、神の祝福をもらって初めて口に入れる作法である。 初切りの前にパンに十字を印すことは、たとえばスイスのサンクト・ガレン修道院の修道士、エッケハルト四世の『食卓讃』(10世紀初め)と題する詩の
2021-3-16 パン作りの工程には、ある種の神秘性がある。 その神秘性を自らに内面化するとき、それがあたかも自らの力によるものであるような全能感を覚える。錯覚ではあるものの、そこには快感がともなう。 麦や菌が物言わぬのを良いことに、自己肯定の道具、承認欲求をインスタントに満たすための道具として、パンを利用する。 かつて自分にもそういう時期があった。 パンを焼けなくなった2年近くの間、自分がこの仕事をまっとうする意味、生きる意味を問い続けた。 その末に巡り会った
2021-3-11 もう10年か。個人的にはいろいろとあって本当に濃密な10年だった。生き様と死に様を問われ、それを模索してきた10年。 社会は良くなったかという話でいえば、正直、全然なっていないと感じる。政治的にもあそこが重要な転換点だったと思うが、〈あれだけのことがあっても変われなかった〉という事実は、若者の未来に対するシラけを増幅させた気もする。 それでも自分の足元をしっかりと見つめて、家族とまわりの人たちを幸せにしていく営みをつづけることに変わりはない。 そ
2021-03-08 太田家の日曜日。 よし、みんなでコンビニに行こう、という話になる。高揚した気分で車に乗り込み、先生のリクエストで『ルージュの伝言』をかけて、みんなで歌いながら山道を下る。 コンビニ。それは月一くらいで訪れることのできる、魅惑の世界。 自動で開くドア。音楽。珈琲の甘い匂い。山にはない、頭がくらくらする程の色彩の数々。眩暈を感じる、コンビニ・トランス。 民族学者・柳田國男が見出だした、ハレとケという日本独特の世界観がある。 「ケ」は日常、「ハレ
久しぶりに先生(娘)とゆっくり温泉に浸かる。 ずいぶん楽になった。 ちょっと前までは、いつ滑って床に頭を強打しないか心配で本当に目が離せなかったから、シャンプーするときも先生を膝に抱えて目を開けたまま洗っていた。 リラックスというよりは無事に上がって着替えさせてほっとするまで一仕事という具合だったのに。 これだけ一緒にいても、時の流れに置いていかれそうになる。 私が、気持ちがいいね、というと、先生も気持ちがいいね、と言う。 あったかいね、というと、あったかいね、
2021-02-17 娘が2歳を過ぎた頃の話。 起き抜けの彼女の目尻には大きな目くそがついていた。 目に黄色いのがついていますよ、と言って私はそれをティッシュでつまんで彼女に見せた。 彼女は「これなあに?」と尋ねた。 私は、ああ、これは目くそだよ、と言った。 彼女は「目くそ?」と聞き返しながら両目を輝かせた。 「鼻くそ」は知っている。「鼻くその味」も知っている。「目」も知っている。「くそ」も知っている。 その大脳皮質に記憶されている「鼻くそ」と「目」と「くそ」が
2020-02-03 二歳半くらいを過ぎて、少し物事の判別がつくようになってきたら、ダメなことも伝えなくてはいけなくなってくる。強要と教育のちがい、甘やかしと愛情のちがい、マジ難い。 まずは理由をつけて丁寧に説明する。 例えば、車で走ってる途中にドアを開けたらどうなるのかなと気になって気になって仕方がなくて開けようとした時。「何やってるの!!ダメでしょ!!!」と怒鳴るとする。子供を守る親の身としては当然の反応である。 しかし、子供からすると開けてみたいという欲求は純粋な
2020-02-01 子育ては難しい。実に難しい。 幼少期の発達段階において、親のちょっとした言動や行動のひとつで、自尊心の形成に大きく影響を及ぼしてしまうということが往々にしてある。 生後数ヵ月は、まだ意思の表示ができないので、お腹がすいたのか、眠たいのか、排泄か、抱っこか、それぞれの“言葉なき要求”を先入観を抜きにして察知、読み取る能力が求められる。しかも自分の睡眠を断続的に妨げられながら、すぐに頼れる親が近くに居るわけでもなく、はじめての事だらけなのにすこしの気