積読解消ーカラマーゾフの兄弟(1)
今回は二週間の旅行中に読了した本と、その本にまつわる思い出について書きたいと思います。
ドストエフスキーの他の作品は高校生か大学生の時に読みました。「罪と罰」、「貧しき人々」は確実に。「白痴」は定かではないのですが。一方、なぜ大作「カラマーゾフの兄弟」を読まなかったのかは自分でも謎です。
覚えているのは、大学二年生の時の出来事。
「ラテン語」のクラスを覗いたことがあったんです。「覗いた」というのは、ラテン語を取ることが必須でもなんでもなかったので、「無理そうだったらいつでもやめよう」という感覚で取っていたから。でも最初の四、五回くらい、多分、講座全体の半分くらいは授業に出てノートもしっかりとっていました。
ただ、指定のテキストと講義だけではやはり難しい、と感じていました。当時はインターネットなどありませんから得られる情報も限られていたんです。今は「ここがこうなるのはどうしてなんですか」と検索すれば、玉石混交とはいえいくらでも説明が出てきますが、当時は人に聞いたり本で読んだりするしか手立てがなかったんですね。今考えると、なんで講義の後に先生のところに行って質問しなかったのか、相手は教師なんだから、聞きに行って説明をしてくれて当然なんじゃないか、という疑問が湧いてくるのですが、あの当時、そういうことはしない感じでした。なんとも不思議ですが、先生とはそういう距離感ではなかったんです。
少人数のクラスにはすでにお互いに知り合いらしい学生のグループがあって(ラテン語が必須科目である専攻の学生たちという雰囲気でした)、試験の過去問をあの先輩からもらおう、といった会話が聞こえたことがありました。羨ましい、彼らと近づきになって共有してもらおうかな、などという思いがちらっと閃いたりしましたが、当時の私は知らない学生のグループに自分から近づいていく、ということができなかったんですね。
実は一人、一年生の時(文学部の中でまだ個々の専攻に分かれる前)にクラスメートだったSさん(名前を覚えておらずごめんなさい、Sさん)がこのラテン語を取っていたんですよね。彼女も毎回授業に出ていたのに一緒に座って協力して勉強する・・・とかそういうことすらしなかった私。Sさんはそんな私以上に目に見えて内気な人だったことを覚えています。
一度など、Sさんに「事情があって授業に出られない週があるのでとっても申し訳ないのですが後でノートを見せてもらってもいいですか」という、大変丁寧なお願いをされたことがあったんです。それなのに私、「ごめんなさい。多分このクラスからはもうすぐ脱落するので・・・」なんて返事をしたことを覚えています。このSさんと一緒に勉強しなかったことが今に至るまで後悔の一つです、はい。
なんで取らなくてもいいラテン語に登録して、半腰を入れて取り組んだ挙句にやっぱり脱落したのか。私は英米文学専攻の学生で、どこかで、何かのきかっけで、ラテン語を勉強してみたいな、と閃いたことがあったんでしょう。文学の授業のどれかで先生が言った一言がきっかけだったかもしれないし、「ラテン語を知っているとかっこいい!」なんていう気持ちだったかもしれません。
さて、ラテン語の授業とカラマーゾフの兄弟になんの関係があるかというと・・・先生が、ある日の授業中に「この表現、おぼえてますか?ある本に出てきますよね・・・そう、カラマーゾフの兄弟です」と言ったのです。その時の教室に、一瞬、「あ〜、そうだ」という納得の雰囲気が流れていました。私はと言えば、本を読んでいませんから、置いてかれたような、なんか恥ずかしいなという気がしていました。
思えば、あの時の恥ずかしい気持ちが私の「カラマーゾフの兄弟」へのこれまでの気持ちを形作っていましたね。「これほどの大作さえも読んでいない自分」というエネルギー、もしかしたらこのエネルギーが長年の積読の現実を作り出していたのかもしれません。
あれから三十年近くたちまして・・・
文庫本のカラマーゾフ、三冊はこの五年くらいずっと自宅の本棚にあったんです。だから「つんどくー積読」ですね。そして去年の夏の旅行、今年の冬の旅行を含めて何度も、本を持って行ったのに読まずじまいになってました。結局ほかの本を読んだり、カラマーゾフを一ページくらい読んで放り出したり。
だから今回の旅行にあたってこの三冊を改めて本棚から取り出し、テーブルの上に置いた時、「また読まずに持って帰ってくるかなあ」という気持ちがよぎっていました。今まで持って行ったのは上巻一冊だけで、上中下の三冊ぜんぶ持っていたのは今回が初めてでしたが。
長くなってきたので、次回に続きます。