♯2 イタリア海軍・ヴェスプッチ号物語!『戦争により、引き裂かれた双子の帆船』〜哀しきCristoforo Colombo号
イタリア人探検家!というとみなさん誰を思い浮かべますか?
日本人ならやっぱりクリストファー・コロンブスを思い出しますよね。
いろいろ逸話、曰くのあるコロンブスさんですが、調べればいっぱい出てくるのでここではバッサリ割愛!各自調べてみましょう笑
でも一言添えておきたい。
2020年5月、アメリカのミネアポリスで起きた白人警官の暴力によって黒人容疑者が死亡した悲しい事件は記憶にも新しいです・・・歴史的解釈は良い面、悪い面、しっかりと捉えて覚えておきたいですね。
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では!ヴェスプッチ号の歴史に戻りましょう〜⛵️
実はヴェスプッチ号には、「双子の姉妹船」がいました。
その名は『Cristoforo Colombo クリストフォロ・コロンボ号』
なぜ「姉妹?」「女性なの?」と思われたあなた、
こちらもご参照ください💁
帆船『クリストフォロ・コロンボ号』の悲しき物語:
アメリゴ・ヴェスプッチの姉妹船はどうなったのか Daily Nautica
『コロンボ号』と『ヴェスプッチ号』生誕物語
1925年、イタリア海軍は老朽化した練習船を代替するため、新しい訓練船2隻の建造を決定しました。
1930年、この2隻は、ほとんど同時期、同じエンジニアによって、イタリア王立海軍の帆船型の訓練船として設計され、『Cristoforo Colombo号』と『Amerigo Vespucci号』の姉妹船は、ナポリ東南の港 Castellammare di Stabia カステッランマーレ・ディ・スタビアで造船され、生誕しました✨
両船は、マストの角度や索具の取り付け位置など、いくつかの違いがありましたが(コロンボ号はプロペラが2基であったのに対し、ヴェスプッチ号は1基しかありませんでした)が、
19世紀のイタリア海軍の帆船『両シチリア王国の海軍旗艦 Monarca号』の影響を強く受けた設計がされており、外観は非常に似ていて、双子のようでした。
1928年7月1日に『コロンボ号』が就役し、
1931年には『ヴェスプッチ号』も活動に加わる。
ほんと姉妹のよう✨
彼女たちは双子部隊として、イタリア海軍の士官候補生育成のための「訓練船分隊」を2隻で編成し、地中海・北ヨーロッパ・大西洋で訓練航海を実施し、第二次世界大戦終結まで、海軍士官候補生の訓練船として活躍しました。
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イタリアの敗戦、そして・・・
イタリア海軍帆船 「クリストフォロ・コロンボ号」 のソ連への譲渡〜
第二次世界大戦後、イタリアはパリ条約によってソ連に多くの軍艦を譲渡することになりました。
そしてその中には、かつてイタリア海軍の誇りであった戦艦「ジュリオ・チェーザレ」や巡洋艦「ドゥカ・ダオスタ」、さらには訓練艦「クリストフォロ・コロンボ」も含まれていました・・・。(お、お姉ちゃんっ・・・泣)
1949年2月9日、イタリア王立海軍訓練船「クリストフォロ・コロンボ号」は、イタリア・ターラント港を出港し、2月12日にアウグスタに到着。そこで正式に退役となり、イタリア海軍旗を降ろし、退役。。。新たに商船としての旗を掲揚しソビエトに譲渡されました。🇮🇹🇮🇹🇮🇹😢
さらには1949年、「コロンボ号」はソビエトに引き渡された後、完全に灰色に塗り替えられ、「Dunaj ドゥナイ(ドナウ川)」と改名されました。
ソ連海軍では1959年まで訓練艦として使用されましたが、1960年に黒海のオデッサの海事学校に譲渡され、翌年には必要なメンテナンスが放棄され、さらには木材運搬船へと転用されてしまいました・・・涙
そして1963年、彼女の運命はさらに過酷なものになります。
彼女の積荷が炎上し、船体にも深刻な損傷を与え、とうとうソ連海軍の船籍からは抹消されてしました。
そして、彼女は、その後8年間も(!)放置され・・・
イタリア王立海軍の訓練帆船として誕生した「コロンボ号」は船の残骸となり・・・1971年にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)のトゥルハンヌイ諸島にあるグラヴトールツェメント造船所で解体されました・・・涙涙涙涙涙
ちなみに、ナポリといえば
コロンボ号じゃなく「ヴェスプッチ号」ですが・・・こんなロマンティックな写真も❤️
ヴェスプッチも下の方でなんやモゾモゾ、いちゃいちゃされて、居心地悪く感じていたのか?はたまた微笑ましく見守っていたのでしょうか。笑
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コロンボ号との別れ〜イタリア士官たち涙の最後の夜にまつわる感動秘話!
コロンボ号がソ連に引き渡される前夜、
イタリア王立海軍所属の最後の夜・・・ひっそりとある計画が練られていました。
コロンボ号がまだイタリア王立海軍所属で任務に就いていた頃、
彼女の会議室には、その名前の由来となった「探検家クリストファー・コロンブスのサン・サルバドル上陸」という絵画が堂々と飾られていました。
そしてお別れの最後の夜、
イタリアの若い士官たちや乗組員たちは、コロンボ号の船室から飾られていた絵画をこっそりと持ち出したという逸話が残っています。
『せめてひとつでも彼女との思い出の品を!』
その絵画を持ち出すことに成功した彼らは大切に保管し、現在は姉妹船『ヴェスプッチ号』の船室で大切に展示されているそうです。(コロンボお姉ちゃん!私、忘れないわ!)
そしてもう一つ
『コロンボ号』 の アナザーストーリー
実はこの時、コロンボ号がソ連に引き渡された時、
ソビエトにはまだ数千人のイタリア人の戦争捕虜が捕えられていました。
そのためイタリア国内には、コロンボ号や艦隊をソビエトへ送ることへの反発があり、イタリア当局は、イタリア内部過激派が、コロンボ号や他の艦隊に爆発物を仕掛け、革命攻撃を計画実施するのではないかと恐れていました。
このことから、コロンボ号もほかの艦隊も、30分ごとに水中検査が行われるなど、イタリア当局により念入りに爆発物検査が実施され、万事を期してソ連まで無事届けられることができました。ほっ💨
(爆破なんてされてたら外交問題ですもんね💦)
ですが!
実は、実行には至らなかったものの、その懸念通り、船を沈没させるという破壊行為がギリギリのところで実行されるところだったのです!
1949年1月20日、その爆破計画は発見され、首謀者たちは「コロンボ号」とほかの艦隊がソ連へ出航予定だったイタリア・ターラントで爆発物と共に逮捕。
そしてローマのテルミニ駅でも5人の元兵士が逮捕され、その爆破計画は実行されずにすみました。
「コロンボ号」たちが出港した日は1949年2月9日だったので、ほんとすんでのところ!
1ヶ月もなかったやん!
危ないとこやったわ!
コロンボ号、爆破されるとこやったで!😳
でもコロンボ号が、その後、どんな終わり方をしたのかを知ると、それはそれでなんとも言えない悲しさがあります・・・
あぁーここまで書いてるだけで涙が出そう・・・
若い士官たちの彼女たちへの愛💙涙込み上げる素敵なエピソードとお話です。
イタリアではネット検索するとわんさとこの話が出てきます。
たまにドキュメンタリー番組でもしてますね♪
最後は悲しいエンディングとなってしまいましたが、
それでも今なお、こうしてイタリア国民に愛情持って語り継がれるなんて「コロンボ号」イタリアに生まれてよかったね。と思います✨
それと、
「コロンボお姉ちゃん」は、もしかして名前が良くなかったんじゃないのかな。なんて邪推もしてしまいます💦
それもこれも全部ひっくるめて、
出来れば『紅の豚』の続編で映画化してほしい〜〜〜!
熱望!!!笑
ま、なんにしても名前って本当に大事ですよね!笑
詳しくはこちらもどうぞ
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あーすごい書ききった感!笑
ヴェスプッチの物語、いかがでしたか?
かなりオタク感を解放して書いてしまいましたが😅・・・お疲れ様でした!
でも
このお話を知ると実際の彼女の姿を見たくなりますよね!
写真盛りだくさん!
よかったらこちらも読んでみてね!
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そして明日は第3弾!行きます!
『ヴェスプッチ号』の内部をじっくり見てみよう!編
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ヴェスプッチ、本当に大好きなので、
この魅力、少しでもお伝えできていたら嬉しいです!
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