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幼少期の母のお説教タイムについて

こんにちは。

先日母から電話があり、渋々出てみると、「今、外?」と聞かれ、「うわぁ~これ、今から行っていい?とか聞かれるやつかなぁ」と嫌な予感がしながら家にいることを伝えると、母は突然泣き出し、今日あった出来事を話しだしました。とても悲しい出来事でしたが、私は、母が泣きながら電話をしてきたということに鳥肌が立ってしまいました。まず娘に電話しようという気持ちになったというところに母の依存を感じました。こういう時に、まず父に連絡できるような夫婦関係を築いてもらいたかった、そう思いました。

さて、今日は少し昔のエピソードを書いていこうかなと思っています。

幼少期のころのことです。
私は常に不安を抱えていて、さまざまなことを心配しているそんな子でした。今思えばこれも愛着障害の一種なのでしょうか。

まず、食がとても細く、あまり食べない子どもでした。なので幼稚園や小学校の給食の時間はとても苦労しましたし、毎日のことなので、今日の給食はどれだけ食べられるかと毎日心配でした。その頃は、全部食べ切ることが大切という教育が主流だったので、給食の時間外になっても居残りで食べ続けていました。今は学校でもそういう教育はされていないのではないでしょうか。それぞれの子どもの個性が尊重されるようになってきているのかなと推測しています。
給食の時間が憂鬱で幼稚園や学校に行きたくないと思った日も何度も何度もありました。
食材の大切さを教えたかったのか、両親は、普段食べている食材は生き物の命を頂いているという話をしてきました。食に対して繊細だった私は余計に食べられない物が増えてしまいました。いろいろと考えすぎてしまったんだと思います。食育って難しいですね…。自分の子どもにもどのように伝えようかと今から考えさせられています。

また、給食以外にも沢山不安を抱えていました。その日幼稚園や学校で上手く過ごせるかと毎日心配でした。
帰ってくれば多少元気にはなって、同じマンションの子と遊んだりしていた記憶はありますが、私の心配事は家の中にもありました。この母との関係性も、日常的に不安を抱く一つの原因だったのかなと今は思います。母は、私のことを、心配性すぎる子という認識で、今でも自分のせいでもあったということは少しも思っていないでしょう。

それは、「いつ怒られるかわからない」という状況でした。普通に過ごしているつもりでも、突然母が爆発し、「あ、また地雷を踏んでしまった…」と反省するのが日常でした。小さいながらに、どうしたら怒られないで済むのか、でもどこで怒るスイッチが入るかわからないから気をつけられないんだよなぁ、困ったなぁと思っていました。
例えば手伝いをしないということで一度怒られたら、基本的には守るようにはしていたつもりなのですが、子どもですので、たまには忘れてしまうこともありました。それが何度か回数を重ねてしまうと、一度言ったことができていないと母は爆発します。当時私は、一度怒られたことを忘れてしまう自分は、できない子だと思っていました。でも、現在いくつか育児本を読んでいると、子どもに「前にも言ったのになんでできないの」と怒るのはあまり効果的でないみたいな内容を読んで、私だけが悪かったわけではないのかなと思い始めています。

それ以外にも怒られることはたくさんありました。何で怒られているのかもわからない時も多々ありましたし、怒られるきっかけとなった出来事があった時でも、次から次へと話は広がっていくので、お説教が始まるととても長くなりました。「また始まった…早く終わらないかな」と毎回思っていました。そういう態度は見透かされて、「早く終わらないかなと思っていること」に対してまた怒られるのです。次第に、どうしたら、このお説教時間が早く終わるのかに悩むようになっていました。いつお説教時間が始まってしまうかは正直子どもの私にはわからなかったので、回避することはできませんでした。母の機嫌なども大きく関与しているので、どこで地雷を踏んでしまうのか予想することは難しかったです。
また、母は怒る際には必ずと言っていいほど手を挙げます。その名残で、今でも私と弟は母が少し手を上にあげたり振りかざしたりする動作を日常の中ですると反射的に顔を背け、避けようとしてしまいます。それを見て、「避けようとするのやめてよ、私が悪いみたいでしょう」と母は言います。
ここまで反射的に避けてしまうのは、相当叩かれてきたんだなと思います。
往復ビンタなんて当たり前。
外出中に、少しテンションが上がってしまい、調子に乗ってしまった際にも、「外だからと言って、ママが怒らないと思うな、どこでだってママは怒るし叩くよ」と何度も言われました。
父の実家、私の祖父母の家に行った際だけ、怒る勢いは弱まり、叩くことはなかったので、祖父母の家に行くことが好きだったし、帰る時には号泣していました。またあの生活に戻るのかと思っていました。父も母も祖父母も、帰ることが悲しい、祖父母と離れることが寂しくて泣いていると思っていたと思いますが、私は日常に戻ることがとても悲しかったのです。
また怒られる日々か…と思っていました。

外に締め出されることもありました。
印象に残っているのは、雪が降っている日に玄関の外に裸足で締め出されたことです。
私は家に入れなくなっても、泣き叫んだりする子ではありませんでした。どこか冷静で、「また怒ってるなあ」とか、「この人は何訳の分からないことを言っているんだろう」とか母に対しての怒りを持ったりしていました。いつか鍵が開くこともわかっていましたし、鍵が開いてからが大変だということも知っていました。「外に出ている間に反省したこと」を述べなければいけなかったし、そこからまたお説教が始まるので、とりあえず母が何にも話して来ない時間ができたくらいに思っていたかもしれません。しかし、母は私が泣いて反省して家に入れてくれと言ってこないことが不満なので、何度も声をかけて来たりするんですよね…。
雪の日に外に出された日の話に戻りますが、裸足だったのと、上着なども来ていなかったこともあり、とても寒かったのですが、それすらもまあいいかと思っていました。当時はマンションに住んでいましたので、もしかしたら、住人の人が帰ってきて、どうしたの?となるかもしれない、そしたら、締め出されましたと言おうと決めていました。さすがに助けてもらえるかもしれないし、母も人に知られて嫌だろうと思いました。夜だったのですが、父もまだ帰ってきていなかったので、このタイミングで父が帰ってくればまず家に入れるだろうと思って、玄関から少し離れ、見つけてもらえそうな場所を雪の中裸足で歩いたりしていました。
人に見つかった方が好都合だと思っていました。

しかし、母も誰かに見つかることを心配して、割と早めに「人に見られるから家に入りなさい」と玄関を開けてきました。自分で出したんでしょと思いながら言われるがままにすると、「どうして締め出されているのに、泣いて反省せずに、冷静でいるのか」と怒られたのも覚えています。そこで、「人に見つけてもらって助けてもらおうかなと思って」などと言ったら、それはもう大変なことになるので、そういう気持ちは心に閉まって、私は黙り込んでいました。黙り込むとまた怒られるんですけどね…。あんたはなんの考えもないとかなんとか。
考えがあってもわざと言っていないとかは、思わなかったんですかね。
この段階に来るとかなり長期戦になっていますし、私も疲れてきているのと行き場の無い母への怒りとで、体力の限界を迎えてきます。早く終わってほしいのもあり、最後には泣いてごめんなさいと言って、何に反省したかも言って(反省内容は母が怒っていたことを繋ぎ合わせてそれっぽい感じのことを少し話せば、後は母が言わせたいことを誘導してくる感じだったので、それに頷く感じでした)、お説教時間はやっと終了。最後にハグをされて仲直り?だそうです。そして、もう遅いので寝なさいという感じでした。この頃小学1、2年生だったと思うのですが、普段の就寝時間もとっくに過ぎ、怒られて泣いて、精神状態ボロボロだった中、疲れ切って眠りについていました。次の日、朝起きると、目はパンパンに腫れていて、母はいつもの母に戻っていました。「目が腫れちゃったね。顔も叩いたから赤くなっちゃったね。ごめんね」というようなことを言ってきてました。
私の気持ちはもちろんどんよりと暗いです。朝食もいつもあまり食べられないのに、さらに喉を通らず、沈んだ気持ちで学校に向かいました。学校でも気分は沈み、どんよりとしたまま帰宅。帰り道は、帰ったらどういう態度を取ればいいかで悩みました。
明るくしすぎると、反省していないのかという話にもなってしまうので…。まあ、明るく振る舞う気力もあまり残っていなかってと思うのですが…。


このように、今回は雪の中外に締め出されたエピソードを例に挙げましたが、覚えているのはこれだけではありません。
習い事に行きたくないと言った日だったから、習い事バッグを窓からは放り出され、「行かないならこれはゴミだね、捨ててしまおう」と言われたり(そのバッグを必死に取りに行こうとしないとまた怒られます)、調子が少し悪くて、幼稚園に行きたくないと言ってお休みした際に、家で遊んでいたら、遊ぶ元気があるなら今から幼稚園に行ってこいと言われ、制服に着替えさせられて、行ってきなさいと見送られました。ちなみに幼稚園にはバス通園するくらいの距離だったので、幼児の足では歩いて行けません。しかし、家を出されてしまったので行くしかないと思い、歩き出しました。道はバスでいつも通る道しかわからなかったので、バスの通りに行こうと決断しました。バスの道は、徒歩や自転車などで行く道より遥かに遠回りなのですが、他に道を知らない私にはこの方法しかありませんでした。その様子を見ていた母は、「そっちじゃないでしょ、こっちでしょ。バスの道で行くなんて無理、こっちから行きなさい」と窓から叫んでいました。私は道はわからないけど、母がこっちから行けと怒っているから仕方ないと、方向転換をして歩き出しました。
歩き出したところで母に止められて、「嘘だよ、帰っておいで」と言われて、家に戻りました。そこからまたお説教は始まるのですが…。

このような感じで「怒られる」ということに怯えて過ごしてきました。

今でも怒られることが嫌いで苦手です。好きな人はいないでしょうが、怒られても自分が悪いと思わないと気にならないという人はいるかと思います。夫がそのタイプで、そんな人いるんだと今更になって気付きました。私は仕事で怒られたりしても、もうその人がトラウマになってしまうほど気になってしまいます。

当時、怒鳴り散らかす母を見ていて、「こういう母親には絶対にならない、なりたくない」と心で唱えながら時間が過ぎるのを待っていたのを思い出しました。

自分がどのような母親になってしまうのか、とても怖いです。
夫に助けてもらったり、本などで様々な知識をつけて、母のようにならないよう、努力しようと思っています。私は、母よりは賢いし、勉強しよう、学ぼうという気持ちも持っているし、大学で心理学を専攻していたおかげで、乳幼児の母の影響の大きさもわかっているし、母のようになるのが怖いと相談した友人にも、「もし方向が間違っていたら、私が注意するから大丈夫」と言ってもらっているので、なんとか頑張っていこうと思っています。

今回お長くなってしまいました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!!


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