冬来たりなば④
約1年前、適応障害による抑うつ状態との診断を受けた。それからの月日、起きたこと、感じたことを振り返って、備忘録をまとめている。
3月 診断編
4月 どん底編
5月 若干マシになってきた編
6月 助走
因果応報
いきなり病気の話から逸れてしまうのだが、4年ばかり使っていた本棚が壊れてしまった。一人暮らしを始めてから、2代目の本棚だった。初代はIKEAで買った10000円しない本棚で、棚板の調整が全然出来ない代物だったうえに、IKEAだけに解体が難しいものだった。2代目はどうしても棚板の調整が出来るものにしたくて、本棚という用途にも使えるだろうとニトリのカラーボックスにした。
しかし、今回その棚板が本の重みでものの見事にたわみ、側面の板まで変形して棚板を嵌められなくなった。完全なる積載量オーバーである。
書籍の所蔵量についてことわっておくと、そこまで多いとは思えない。いちばん読書量があったのは学生の頃だし、社会人になってからは趣味は読書だなんてとても言えないと思うぐらい本を読めていなかった。ただし、良い感じで部屋の模様替えをしたいなとRoomClipなどで参考例を探しても、1Kの部屋の大きさに対して自分が所持するすべての本をおさめられそうなサイズの本棚を配置した事例が、まったく見つからないのが常である──多いんだな、本、多いんだ。認めます。
ともかく新しい本棚を探さなければならない。安物買いの銭失いになるのは避けたくて、今度はちゃんとした頑丈なものを買おうと決心した。こんなとき、ときどきしんどさに倒れそうになりつつも通院しながら働いているだけ、毎月の収入は保証されており、ある程度お金は使えるという強みはある。
色んな通販サイトを物色しながら、つらつらと考える。自分がキャパオーバーの仕事を背負わされて適応障害という機能不全を起こす一方、自分も本棚にキャパオーバーの荷を負わせて壊してしまったのだ。なんという因果。
本当のはじまり
本棚を探す一方、2週間毎のメンタルクリニック通いも続けていた。症状に改善が見られてきたということで、更に元に戻していくためしつこい睡眠障害をなんとかしようと、ついに薬が処方されることになった。当初、服薬を拒否していたのは私である。だが、処方されるのは漢方だということもあり、薬の力を借りてもいいかという気持ちになった。少しずつ、ダメな自分を受け入れて赦せるようになってきたかのように、心境が変わったのである。
しかし、これは長い長い、新たな試みの始まりでもあった。急性期という時期を抜けつつあった当時の私が目指すは寛解、更には断薬しても安定した状態であった。残念なことに、薬を断つことには何度かトライしたがそのたびに失敗し、目標は叶っていない。睡眠障害は今も残り、心に重くストレスがのしかかる夜は寝つけず、夜中や明け方暗い頃に何度も目が覚める。一度病気になったことで、ストレス耐性が一気に低下してしまったみたいだ。
学者と大木は俄かには出来ぬ
自分でも馬鹿だ馬鹿だと思っているが、この頃から本格的に資格勉強に精を出し始めた。職場で取得を推奨されている国家資格である。結構な難関で、何度目かの挑戦になる。
精神疾患で通院しているというのにメンタルに負担になるようなことをしてもいいのか? とこれでも一応大分自問自答した。しかし、勉強するぐらいならかまいませんよ、と医師からまさかのGOサインが出てしまった。お高い受験料も払っちゃったしなぁという、三つ子の魂百までの貧乏根性をも手伝って、出来るだけ勉強してから試験に挑むことにした。試験は来月であった。
結果から言うと、瓢箪から駒が出るとはこのことで、うっかり筆記には受かってしまった。これまで何年も積み重ねてきた試験勉強の下地が、ようやく整ってきた故の成果なのかもしれない。しかし、その後の口頭には落ちた──人との対話におけるディスコミニュケーションが症状としてしつこく残っていたので、これは仕方がない。
それにしても、これまででいちばん最悪のコンディションだったというのに筆記合格という事実を前に、人生とは実に不条理でわけのわからないことだらけだなぁ、という気持ちばかりが強くなった一連の出来事だった。
襲来
6月半ば、通販で頼んだ本棚と共に両親が自宅にやって来た。財布の痛みという意味で泣きながら万札をはたき、本当に頑丈な本棚を買ったところ、ひとりで組み立てられないほど重いブツが来てしまったのである。
先月のはじめに帰省して以降、どうやらこいつ様子がおかしいぞと異変を察知したらしい母はこちらに何度か顔を出していたが、ついに父までくっついてきた。本棚の組み立て要員である。
狭い部屋にどやどやと上がり込んできて、私の蔵書量に若干ひきながら──蔵書量については両親のどちらにも人のことをとやかく言う権利はないはずである──父はダンボールの梱包をとき、ドライバー片手に棚を組み上げていく。
ところで両親ははるか昔に離婚している。憎み合って別れたわけではない。彼らの間の著しい性格の不一致は、幼い私から見ても火を見るより明らかで、3歳にして両親がどうして結婚したのか、まったくわからなかった。私を伝書鳩にして家庭内冷戦状態を続けるぐらいなら、とっとと別れてさっぱりしてくれ、と中学生になる頃には呆れていた。我ながら冷めた子供である。しかし、彼らは元は学生時代の友人ではあるため、四六時中一緒にいる夫婦生活の続行は不可能だが、親としてこういうときだけは一致団結してあらわれる。
本棚は完成し、おやつをつまみながら、父が持参した「椿三十郎」のDVDを観た。私が映画を見ることが好きなのは、そもそもこの人がSTAR WARSやらゴジラやらのビデオを、沢山家で見ていたからだと不意に思い出す。子供の頃、毎年お正月に公開されていたゴジラ映画に連れていってくれたのも父だった。そんな思い出も手伝って、本棚を組み立ててくれた礼に、私からは「ゴジラ/キング・オブ・モンスターズ」のDVDを貸し出した。久しぶりに人間らしい交流をした気がした。
両親が帰った後の一人暮らしの部屋で、真新しい本棚に並べた本たちの背表紙を眺める。コロナ禍で在宅時間が増えたため、出来るだけ家をくつろげる環境にしようとこれでもつとめたつもりだったが、きちんと金をかけて調えた家具というものを見るとまだまだ全然足りず、寝に帰るだけの穴倉のような環境に暮らしてきたんだな、と少しばかり情けなくなった。それもそのはずだ、コロナ禍に突入していちばんはじめにしたことは、MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)のBlu-rayを大人買いしたことである。オタクのコレクターマインドは満たしているが、寛げるような家づくりにはまったくなっていない。
病気になって、人がインテリアに工夫し、暮らしを丁寧に送ろうとする気持ちがようやく、身に沁みてよくわかった。味わいたくなかった経験だが、これも進歩のひとつである。
私は毎月、少額ずつ、インテリアやガジェットを調えることに精を出すようになった。
逢魔が時に魔が差して
漢方の処方が少しだけ効き始めた、6月下旬のはじめのことだった。睡眠障害の症状は未だに残り、明け方にようやく眠れたり、早めに寝つけても3度は夜中に中途覚醒したりとなかなか落ち着かなかった。それでも、4月や5月初旬頃にあったような、ひたすら自分を追い詰める自責思考や不安障害的な傾向はなくなり、家事を行う動作も軽くなってきていた。胸の圧迫感をおぼえることもほとんどなくなり、症状は地道に回復傾向を辿りつつある。メンタルクリニックでも、今後また急性期のような状態に戻らないためにどうしていくべきか、という段階の治療に入っていた。
そのメンタルクリニックに出掛けた帰りである。空は夕焼け色に染まり、あと30分もすれば日が沈むであろうと思われた。人通りの少ない開けた道路で、私は向こう側の歩道に渡ろうといったん立ち止まり、目線を右に左に振った。視界の隅に、車が一台走ってくるのを捉えていた。あ、車が来る、この車が通り過ぎた後だったら渡ってもいいだろう、今は待ちだ、と頭で考えた。だが、私の足は、車がやって来るというのに、ふらっと道路へと飛び出していた。
このとき、何故頭の指示を身体が裏切ってしまったのか、いくら考えてもどうにも説明がつかない。
こちらに向かってくる車の前に飛び出してしまった次の瞬間、我に返って大慌てで走り、衝突する前に間一髪で道を渡り切った。あのとき車を運転していた方、怖い想いをさせてしまって本当に申し訳ありませんでした。どこのどなたかわかりませんが、この場を借りて心から謝ります。
自分が交通事故を起こすところだったことを渡り切った向こう側の歩道で悟った私は、瞬時に血の気がひいて、しばらくそこから動けなくなってしまった。鬱は治りかけ、良くなってきた時期がいちばん怖いという巷の言説が頭の中をぐるぐると渦巻く。
夕暮れ時は逢魔が時とも呼ばれ、魑魅魍魎に出逢う時間だという。それに、魔が差す、という言葉もある。まるで悪魔が心に入りこんだように一瞬判断や行動を誤る──たしかに、そうとしか表現しようのない感覚だった。
昔の人は何故こんな言葉を編み出したのだろう。私みたいに、何かに魅入られたようにして、自ら死に首を突っ込みそうになったことでもあったのだろうか。
ただの一瞬の判断を誤った次の瞬間、再び一瞬の判断で命拾いをしたことしか今もなおわからないまま、生きてこの文をしたためている。
試運転開始
回復の傾向が見えた途端、ヒヤッとする経験をしたり、6月も相変わらず高低差と波の激しい生活を送っていたが、月末ともなると、そろそろ通院し始めてから3カ月という頃合いになってきた。様子を見ましょう、と医師から言われていた期限が近付いてきたのだ。
会社のほうもそれを覚えていて、間もなく7月になろうという日に再び面談の機会が設けられた。通常業務に戻してみないか、というのだ。
はっきり言って、相当に怯えた。また同じことを繰り返して、せっかく改善がみられてきた体調や症状が逆戻りしたら、この3カ月の地道な、亀のような歩みがすべて無に帰してしまう。必死で不安を訴えた結果、通常業務に戻るにあたりいくつかの決まりごとをつくることになった。
複数のタスクを同時進行することはしない
具合が悪くなったらすぐに言う
おおまかにはこのふたつである。どんよりとした曇天のような気持ちだったが、これに従ってまた少しずつ様子を見ていこうということになり、先々のことを考え過ぎても仕方がないともう腹を決めた。長く休めていたエンジンをかけてみて、すぐにガス欠でエンストしてしまうか、異常音をたてながらも細々と動き続けてくれるか。もはや出たとこ勝負だった。
ほぼ自分のためとはいえ、ここまで記憶を掘り返し、事実や思考を整理をする作業は結構しんどく、書くのにかなり消耗してしまいました。適応障害備忘録の投稿は、ここらでひと息入れようと思います。本当にメンタルがヤバかったときに摂取できた映像作品のnoteは書くかもしれません。
続きは元気になってきたら。そのときはまたお付き合いください。
Thank you for reading.