今求められているのは、心理的安全性である
"心理的安全性"という言葉は、2015年Google社が「チームの構築に最も重要なものである」と発表したことで有名になった(Link)。何でも言い合える、失敗してもやり直しが認められ、やりたいことに没入できるという環境が、人の能力を最大限発揮するために不可欠だと考えられている。今の日本に決定的に欠けているものは、まさにこの感覚ではないだろうか?
現在の日本は、相当に厄介な課題を多く抱えている。コロナの猛威に加え、悪化し続ける財政問題、少子高齢化、環境問題など、将来への不安がかつてないほど高まりつつある。
不安という感情は、一人ひとりの生産性に少なくない影響を与えている。自分が取り組んでいる仕事が、疑いなく自分のやりたいことであるという確証がなければ、それに一生を捧げても良いと思えるほどの熱い情熱を抱くことができないからだ。
深く考えずにがむしゃらに働き、大金を得ることによっても、「成功した」と感じ取れるかもしれない。けれど、そうした私的成功の裏で国家が道を誤り、危機的な状況に陥って次の世代に遺恨を残すようであるならば、その選択は失敗だったと言わざるを得ない。経緯はどうあれ、問題を解決することができるタイミングをみすみす見逃してしまうことになるからだ。国家が信頼できなければ、一心不乱に仕事に専念することも、仕事に誇りを持つことも叶わない。人の思いはバラバラで、自身と周りの思いはうまくかみ合わず、生産性が大いに損なわれてしまう。
今、国家の信用が大きく揺らいでいる。モリカケや桜の問題、コロナの政府対応、首相の会見の場でも、誠実とは程遠い行動が散見される。
感染リスクを抱えながらコロナ患者と必死に戦う医療関係者が、いつ終わるとも分からない過酷な環境の下で心身に支障をきたし、燃え尽きかけている。日本において『7人に1人が貧困にあえぎ、1人親世帯では半数以上が貧困に苦しんでいる』という過酷な事態が続いている。また財政のツケはひたすらに後回しにされ、財政的幼児虐待などと揶揄されている。努力が報われない、機会すら平等でないという環境は、人々が誠実であり続けようという意思を挫き、民主主義の存在自体を脅かしかねない。
心理的安全性を取り戻すためには、何より国家が信用されなければならない。国の指し示す先に希望があり、安心してついて行けると思えなければならない。所属する企業が、本気で地球環境の悪化を食い止める覚悟をしなければならないし、従業員とその思いを分かち合わないといけない。企業のそうした意思と行動を、消費者が正しく評価し、受け止めなければならない。国家と企業と人が、多様な価値観を認めた上で対話を続けなければならない。
信用は一朝一夕では手に入らない。透明性を高め、説明責任を十分に果たし、無数のコミュニケーションの積み重ねによって醸成される無形の資産である。残念ながら、日本という国が自国や世界をどういう風にしたいのか、その思いや願い・道筋がとても曖昧で、磨かれてこないまま失われた30年が経過してしまった。かつてはハードの面で成功できたのだとしても、ソフトの面での脆弱性が、将来を暗いものにしているのではないだろうか?
まず、「どうすれば生産性が上がるのか」「利益が出せるのか」ではなく、「どういう未来にしたいのか」を考え、共有しなければならない。そのためにも、性別や年齢に縛られず、互いを尊重し、フェアに語り合えるような"心理的安全性"が求められているように感じる。
twitter:kiki@kiki_project
note:kiki(持続不可能な社会への警鐘者)
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