#8 本気で社会を変えるにはー尊敬すべき対象は?【後編】
改めてですが、あなたにとって"尊敬"の対象範囲は何でしょうか?
ここに、現代社会における問題の本質があります。世間一般の解釈としては、あくまで「人」を対象にしており、「人以外」の存在が認識からごっそり抜け落ちていることが多いのです。その結果、回りまわって「人」そのものの尊厳を揺るがし、社会を不安定化させています。
自然は人類に様々な恩恵をもたらしてくれました。長い歴史の中、互いに食うか食われるかの複雑な関係ではあったものの、地球上で悠久とも言える時間をともに歩んできました。ただし産業革命以降人々は化石燃料などから効率的にエネルギーを利用することに成功し、無尽蔵に見えるエネルギー源を利用することができるようになったのです。それによって、自然界の限界を越えて爆発的に人類は繁栄することができましたが、そのあおりを受けて、他の生物種は凄まじい速度で大量絶滅を始めました。
仮に自然破壊が相当に進んで、自然からの恩恵が得られなくなったとしても、将来的に全て機械の力で代替できるようになるのかもしれません。そうなればいくら自然破壊を起こしたとしても、人類には何の問題もありません。ただそのロジックはあまりに自然の持つ作用を過小評価していること、技術の進歩に楽観的過ぎること、自然という存在を”モノ”として扱い過ぎていることに気味の悪さを感じるのです。
この種は価格に直すと○○円で、その絶滅は人類にとって損害が○○円だという経済的な発想は、とても危ういものがあります。人(私達)が、人(私達)以外の存在に値札をつけ、価値がないと見るや切り捨てることを合法化する"言い訳"を作ってしまうからです。
もし、あなたのことを「社会にとって何の役に立たない存在である」と周囲から一方的に決めつけられたならば、たちまち怒り狂うでしょう。それはあまりに横暴で、偏見に満ち、普遍的な人権を侵害していると感じるからです。けれども、自然と人に境界線を置くことも人が勝手に決めたことです。人が決めたことは、やはり人によって容易に変更されます。自然を扱う時の金銭的な判断軸は、人が持つ命に対する感受性を鈍らせ、自分にとって役立つか/役立たないかの二元論、不要なモノは全て排除するという極端な考えに傾きかねません。
心理学者のアルフレッド・アドラーは共感のことを『相手の目で見て、相手の耳で聞き、相手の心で感じること』と定義しました。共感とは、"他者に寄り添うときの技術や態度"であり、それは受動的に感じるものでなく、能動的な働きかけによって生まれるとされています。
経済的な視点は、相手の存在そのものに価値を認めません。相手に"共感"することも認めません。常に上からの視点で、「それを守ることにどれくらい利益があるのか証明してくれ」と、加害者ではなく、原告(被害者)側に説明責任を求めます。行き過ぎた経済的な考えは、共感することを後退させ、損得論に基づく考え方を増長します。共感のない世界、相手を尊敬しようとしない社会は、豊かな社会にはなりえません。
(#9へ続きます)