Funny Bunny 〜自己紹介にかえて〜
音楽はノリだけでいい。
歌詞は重要視しないので、あまり意味のわからない洋楽を好んで聴いている。普段、広告業界で日本語をコネコネしているせいか、「君に会いたい」「自分を信じて」といったストレートすぎるフレーズは尻が痒い。
日本語の歌詞は、アタマ搾ると緑の液体が滲み出てきたり、プール帰りにアイス食ったりするぐらいでちょうどいいと思う。
かように斜に構えている私なのだが、4、5年前、うっかり無防備な状態でCMから入り込んできた歌詞にやられてしまった。
キミの夢が叶うのは
誰かのおかげじゃないぜ
風の強い日を選んで走ってきた
包み込むような癒し系のボーカル。
気づけば、あふれそうになる涙を必死に堪えていた。そばに家族がいたのだ。
覚えている人も多いだろう。これはアクエリアスのCMで、スポーツに打ち込む子どもと、それを支える親の姿を描いたもの。曲は1999年に発表されたザ・ピロウズの『Funny Bunny』を、女性シンガーUruがカバーしている。
全力で泣かせにきているCMにまんまと泣かされた。それも「夢が叶う」なんてド直球のフレーズに。
きっと私自身が、子どものころ母親から「ご神仏のおかげ」と言われまくって育ったせいだと思う。
+ + + + +
ほぼ「宗教2世」だった。
両親は私が物心ついたころから某宗教を信仰しており、姉と私は題目を唱えることや読経を強要されていた。姉と違って反抗的な私の態度に母親が腹を立て、「拝め!拝め!」と殴る蹴るの暴行を受けたこともある。
加えて、家は貧乏だった。両親は高卒と中卒で稼げない仕事に就いていた。私はとても勉強ができる子だったのに、中学受験など別世界の話で、塾にさえ行ったことがなかった。
テストで100点をとっても、絵や作文で賞をもらっても「ご神仏のおかげ」。
ここまでだけでも我ながら「キッツイなwww」と思うのだが、さらなる不幸が訪れる。
私が高1だった年の9月、父親が大病で死にかけた。大手術を繰り返し、身体障がい者1級の手帳をもらい、無職になった。家計はますます困窮したが、命が助かったことで両親はますます宗教に傾倒した。
当時、高3だった姉は勉強ぎらいで、父がそうなる前から高卒で就職することが決まっていた。一方で私は、すぐに居ても立ってもいられなくなった。これはマズイ。
レアケースだと思うが、私はかなり早いうちに将来やりたいことが定まっていたのだ。小学校高学年で「文章を書く仕事をする」と決め、中学校の卒業文集では「コピーライター or 雑誌の編集者になる」と記した。広告会社や出版社に就職するのであれば、大学に行ったほうがいい。何より勉強は好きだったので、もっと教育を受け、自分がどこまでやれるかを試してみたかった。
しかし、このままだと進学は絶望的である。そこで母親に「自分で大学に行く」と宣言し、サッサとアルバイト先を決めた。最初に父が倒れてから2週間以内のことだった。福屋工務店並みに仕事が早い。というか、完全に自分のことしか考えていない。3歳で両親を見限ったという「Drまあや」ほどではないが、近いものがあった。
周りは誰ひとりアルバイトなどしていない進学校に通いつつ、高3の9月まで働き続け、ちょうど2年間で100万円余りを貯めた。
正味、センター試験(当時)までに集中して勉強したのは3ヶ月未満だったが、ノー塾・国立一本で現役合格した。
うれしい誤算は、大学に払う費用が入学金の20万円だけで済んだことである。授業料は4年間、成績と家計状況から全額免除された。Webのない時代だったし、調べも足りず、そんな制度があることは入学後に知った。大学には心から感謝している。宝くじが当たったら、樹木希林ならぬ「喜々基金」を創設して貧乏な学生を応援したい。
大学卒業時はカッチカチの就職氷河期だった。宣伝会議(のコピーライター養成講座)にも通わず、相変わらずアルバイトばかりしている不届きな学生であったが、なりたい思いだけで氷を溶かし、ある広告制作会社を掘り当て、晴れてコピーライターとなった。
夢を叶えたのだ。
メデタシ、メデタシ。
…とはならないのが、私の人生の難儀なところであって。
+ + + + +
31歳独身で病に倒れた。
コピーライターとして独立して5年目、2004年のことだった。
仕事は順調に増え、29歳で女ひとりマンションを買い、アシスタントを雇い、バッキバキに稼いでいた。
病名が確定したとき、看護師さんが車椅子を押しながら走ってきたことを覚えている。
「今すぐこれに乗って。できるだけ動かないで」と看護師さん。
「生きててよかった、よかったねぇ」と医師。
呆然とする私に、医師は続けてこう言った。
「大動脈解離、ってわかりますか」
普通、31歳の女性はほとんど知らないだろう。今の時代なら、著名人の訃報などで聞いたことぐらいはあるかもしれないけど。
私は、知っていた。とてもよく知っていた。
「父と、同じです…」
絞り出すように答えた。
私が高1のとき、父が苦しみ、家族も大変な苦労をした、その最も憎むべき病気を自分も患ってしまった。厳密に言うと、父は「解離性大動脈瘤」であったが。
その後の調べで、私は父からの遺伝により「生まれつき心臓血管が脆い」ことがわかった。そして「エーラス・ダンロス症候群4型(血管型)」という確定診断を受けた。Ehlers-Danlos Syndromeなので、以下EDSと呼ぶ。
EDSは希少難病で、血管型の疾患頻度は1/50,000〜1/250,000とされている。大動脈解離は、EDSによって生じる大症状のひとつだ。他には心臓弁も逸脱・閉鎖不全を起こしやすい。
Webで見つかる資料には、だいたいこう書いてある。
遺伝子の異常が原因であるEDSは、今もって根本的な治療法がなく、対症療法のみである。私の31歳での大動脈解離についても、ステントグラフト(金属バネを巻いた筒型の人工血管)を挿入して穴をふさぐ手術で乗り切った。
ただ「心臓血管が脆い」ことは変わらないので、いつまた解離するかわからない。実際、父は一度だけでなく解離を繰り返し、やがて大動脈をごっそり人工血管に置換した。また父は、大動脈弁閉鎖不全症によって機械弁への置換も行なっていた。
これから私、どうなるん…。
結婚とか、子どもを産むとか、できるんやろか…。
仕事、大丈夫かな…。
病室の天井を見つめながら、ぼんやり考えていた。
+ + + + +
その後、どうなったか。
大動脈解離してから2年のうちに、私はとっても能天気な夫と出会い、妊娠し、結婚して長男を産んだ(順番w)。
じつはEDSでは、妊娠出産が「禁忌」となっていたので大変だった。もちろん遺伝のリスクもある。このあたりの葛藤についてはまた書きたい。
さらに3年後には、主治医と大喧嘩しながら長女も産んだ。血管型EDSの患者として子どもを2人産んだのは、明らかになっている限り世界で2例目だったらしい。
現在、長男は高3、長女は中3になり、家族4人で愉快にやっている。
病歴としては、懸念していた通り2015年に2回目の大動脈解離を発症したが、再び生還。このときもステントグラフトを挿れて乗り切り、大動脈内のステントグラフトは計4本になった。
直近では、僧帽弁の逸脱が進行したため、2024年2月末に人工心肺を使って僧帽弁形成術を行なった。そして4級の障がい者手帳を取得した。
一方で、仕事は辞めなかった。二度の出産のための管理入院なども含めると過去8回入院しているのだが、そのつど復職し、2025年3月でコピーライター歴30周年を迎えようとしている。フリーランスとしては26年目だ。次第に職域が広がり、プランナーを名乗ることも増えた。
私が倒れても倒れても待っていてくださり、また案件を発注してくださる取引先には感謝してもしきれない。いつも本当にありがとうございます!!
「あなたの病気は、だいたい48歳で死にますよー」と言われながらも、なんとかデッドラインを越えて52歳になった。次は、父が亡くなった64歳をひとつでも越えれば上出来だ。このポンコツな心臓で、あと20年も30年も生きられる、生きたいとは思っていない。
+ + + + +
冒頭の歌詞に戻ろう。
キミの夢が叶うのは
誰かのおかげじゃないぜ
風の強い日を選んで走ってきた
思い返すと私のこれまでの人生は、自分で選んだわけじゃないけど逆風がびゅうびゅう吹いていた。いわゆる親ガチャは大ハズレだったし、あろうことか父親の希少難病まで受け継いでしまった。
そのまま親ガー!病気ガー!国ガー!と言いながら、うずくまっていることもできたと思う。
でも、無自覚のうちに「選んで」いたのだ。風の強い日でも走ることを。
何でもかんでも「ご神仏のおかげ」と言われ、自尊心を抑えつけられながらも、自分の適性を見極め、あきらめずに表現してきたことは誇っていいのかもしれない。と、ようやく思えるようになった。
以上が、私の半世紀を凝縮した3,746文字である。最初、3,756文字になり、ミナゴロ……(!)と不穏な数字になったので10文字減らした。これで「みんなよむ」「みんなよろしく」だ。うん、みんな、よろしく!
+ + + + +
【サムネ画にひとこと】
どこから写真を引っ張ってくればいいの!?と思ってたけど、ちゃんと他のクリエイターさんの作品を使わせていただける仕組みがあるんですね。いいなぁnote。
タイトルに合ったイラストにしたいな〜と思い、とりあえず「うさぎ」で検索したら、これ以上ないほどFunnyなBunnyちゃんが出てきました。Nottyさんありがとう。あなたの絵、好きです。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?