『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』短編との比較
短編から長編にするにあたっての変更
弟の失踪地点がトンネルから廃墟へ
弟が霊になると喋らなくなる。
母親が登場しなくなった
新聞記者の登場
山のいわく。神捨て山。山怪。
ファウンドフッテージ要素の追加
大きな変更点は上記に書いた通り。細かいところだと登場人物の名前が変わっていることなどがある。
トンネルから廃墟へ
弟の失踪地点の変更だが、廃墟になったことで探し回る中での恐怖や建物の不気味さがより増幅されている。しかしながら、短編のトンネルもかなり怖く一発の恐怖のインパクトは廃墟よりも上回っていた。さっきまでいたのに暗闇に消えてしまうという別の世界へと弟が入り込んでしまった絶望が強い。
廃墟で印象強いのが黒沢清の作品の質感に近いことだ。黒沢作品の中でも学校の怪談シリーズの作品に近い、黄ばんだ映像と長い通路。
私が特に怖いと思うのは通路のずっと奥だ。通路が小さく見え奥が見えないと暗闇が向こう側の世界から何かがやってくるのではないかと思うことだ。
監督は黒沢清を真似してJホラーを作るとコンテストでは落選すると話していたが、共通点は多いように思う。
小声と薄暗い画面
森など超自然的なものの恐怖を描く。
幽霊の顔は移さない。
小声で話されたり、画面がずっと薄暗いと自宅鑑賞時にはかなり苦労するのだが、何もないシーンでも何か起こるのではと過集中状態になり恐怖を感じやすくなる。長編化で細かい音の編集ができるようになったのは大きい。
本作でも霊の身体の一部が一度だけ映るが、なんと腕だけだ。それ以外は声のみ。つまり本作の恐怖の本質は幽霊ではなく、森や建物全体に漂う雰囲気なわけだ。廃墟で起こる怪奇現象に恐れおののくのであって、幽霊が驚かせてくるわけではないのだ。幽霊はいるだけ。つまり、黒沢清の参考にする小中理論のやりかたになっている。
本作は説明台詞はなく、登場人物の行動で状況がわかる。
同居人である天野司に霊感を持っていることを、女性の防犯ブザーをつけて警戒している相手がこの世にはいないものだと説明している。
主人公の敬太が山に登る理由や、山の過去のいわくを調べ伝える役割の新聞記者との出会いなど合理的で本人たちの自由意思で動いている。
物語を動かす駒としてではなく、人間としての行動をとる。
幽霊も共通で何も語らない。敬太を山へと誘い込もうと他人の声になりすまし喋ることはあっても、廃墟では喋らない。短編では弟は兄を呼ぶなどあったが、長編では霊になってからは一切喋らない。ただいるだけなのだ
山怪の追加
物語の大きな変更点としては山怪の登場によって物語としての面白さと怖さが増幅した。地元の若者が山怪を話すシーンによって、山が特別な場所であることを決定づけていた。監督が映画美学校に通っている際に助監督などで携わった『霊的ボリシェヴィキ』の影響を感じる。
新聞記者についての考察
新聞記者が廃墟に入り、天野司の後を追い二階に上がろうとした際に上るのを阻止しようと掴んできた腕。あれはおそらく敬太の父の手ではないのだろうか。物語の序盤で新聞記者は敬太の二年前に亡くなっている父からの電話で「息子のことをよろしく」と伝えられていた。
感想
目を覆いたくなる見たくない恐怖から
自然と見ていたくなって、体も動かず、声も出ない恐怖へ
絶対に見てはいけないし行ってはいけない。でも好奇心を抑えられない。ダメと言われたからこそ気になる。そんな好奇心が引き起こす恐怖を私たちは画面を見るか見ないかの選択肢を選ぶことになるわけだ。これは鑑賞ではない体験なのだ。ポスターに「Jホラーの正統派継承者現る」と書いてある通り、これぞJホラーという作品だった。ジメっとではなくボンヤリなのがたまらなく好きだった。
作品概要
『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』
ストーリー
主人公の敬太(杉田雷麟)は、幼少期に弟が山で失踪した過去があり、現在は行方不明者を探すボランティア活動に従事しています。ある日、彼の母親から弟が失踪する瞬間を記録したビデオテープが送られてきます。敬太はこのビデオテープを手掛かりに、弟が消えた山へ向かう決意をします。
ノーCG、ノー特殊メイク、ノージャンプスケアをコンセプトにしています。監督の近藤亮太は、「分からない」恐怖を追求しており、直接的な残酷描写は避けながらも、視聴者が感じる恐怖感を最大化しています。
第2回日本ホラー映画大賞で大賞を受賞した短編映画を基に長編映画化。