辛い経験をした人すべてが、優しくなれるわけではないのだという話。
友人に衝撃を受け、自分の中の固定観念が変わった話を記録してみる。
まず、私の友人について。
彼女は高校の同級生で、知能は高くとある強烈な特技を持っていて、それゆえにみんなから認められていたものの、周りが見えていなかったり気が利かず想像力に欠けている部分がある性格で*1、
大学時代は家庭の事情でうつ状態を経験したり、社会に出てからもパワハラに遭い適応障害で4か月休職を経験したりしている。つまり、辛い経験をしている。
*1:具体例として、高校時代体育祭の打ち上げでクラス全員で焼き肉に行った際、向かいの席で一人で煙を浴びながら延々と肉を焼き続けている人を一切手伝おうとせず、笑顔でずっと見続けて、貰った肉を笑顔で受け取っていた。
また、私が友人関係で辛い出来事に見舞われた際、彼女にその話をしたら「ああ」で会話が終了し、共感や慰めの言葉が一切なかった。
さらに、私の親しい友人が自死した際、その話を私から聞いた後、彼女は笑顔で「死に顔見た?」と私に聞いてきた。
また、散々理不尽なことをされて堪忍袋の緒が切れて某友人と絶交した私に対して、その某友人と自分のエピソードを悪びれもせず私に話してくることもあった。
さらに、彼女が飼っていたハムスターが亡くなり、彼女はマンション暮らしで庭もない中どう埋葬したのか私が聞くと、笑顔で「共有スペースに、ポイって」と投げ捨てる動作をして話してきた。
彼女にはこの手のエピソードが無限にある。
私はいずれも、彼女のあまりのデリカシーと想像力のなさに驚愕し、毎度言葉も出なかった。いっときは本気で彼女はサイコパスなのではないかと思っていた。
彼女は人間味に乏しい面があり、人と愚痴で共感したりマイナスな言葉や感情を表に出すことが殆どない一方で、何事に対しても受動的で受け身であり、誘いには乗るものの自分から周囲を巻き込んでアクションを起こすということが全くと言っていいほどない。
一方で、一人暮らしの彼女の家に来た友人にお金を要求せず手料理を振る舞うなど、彼女が他人に見返りを求めずに何かを施すことも多く、「する」ことにも「される」ことにも無頓着、鈍感で、互酬性の概念が乏しい印象の人物像だった。
そして私は彼女から学んだ。辛い経験をしたからといって、その経験を誰もが活かせるわけではないのだと。辛い経験をした人すべてが、優しくなれるわけではないのだということを。
おそらく彼女は、己の身に起きた辛い出来事に対して己の感情に蓋をし、「鈍感になる」という選択をしたのだと思う。出来事を正しく真正面から受け止め、辛くとも痛みが伴おうとも時間をかけて消化し、自分なりに解釈をして学びを得る…という過程を、一切経験してこなかったのではないか。そのため、同じように辛い経験をしている人がいても共感できないし、寄り添って力になることもできず、ただ相手の話を聞き流すことしかできないのではないか。出来事に対して心が耐えきれず、己を守るために本能的に極度に鈍感になったのかもしれない。
私の中には、「辛い出来事を経験している人ほど人間性に深みがあり、優しい」という固定観念があった。しかし、それは万人に共通するものではなかった。出来事を正しく真正面から受け止め、辛くとも痛みが伴おうとも時間をかけて消化し、自分なりに解釈をして学びを得る…という過程を経た人のみに通用する観念だったのだと、初めて気づかされた。
特にこの出来事は、そのことを強く実感させられた出来事だった。
※余談:この話を聞いて、「彼女、受動型ASDなんじゃない?」とのお声を頂くこともありましたが、当方医者ではないのでわかりません。もし何らかのヒントがお分かりになる方いらっしゃいましたら、ご連絡ください。