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カーテンコール

ーーーースミレは、ただスミレのように咲けば良い
『岡 潔』

#1
「美しい幸と書きます」
自己紹介する時、いつもそうやって誤魔化してた。
何が相手を満足させて、何に自分が満足できるのかまったく分からずに、ただただ固定された内容を呪文のように説き直すこの瞬間がいつも嫌いだった。
社会人になって、どうすれば自分の名前を即座に覚えてもらえるだろうって気にしだすと、そもそも名前が何のためについてるのかさえ、分からなくなっていた。

「みさ顔色悪いよ、大丈夫?」
我に帰ると、心配そうに私を見上げる杏奈と目が合った。
「名前って何のためについてるのかなぁって思って」
「えー、そんな顔でそんなこと考えてたの?良いじゃん、みさって美しい幸って書いて、みさなんでしょ?私なんて杏奈よ?せめて清らかとか美しいとか、そーんなキレイな言葉欲しかったなー」
「名前がキレイ、か、、、そんなこと考えたこともなかったなー」
意味のあるようで無いような、浅い会話を交わしながら2人は私の部屋で飲んでいた。

「そんなことより聞いてよ、私今度フランスに行こうって思ってるの!」
「杏奈がフランス?そんな大袈裟なところ行って何するのよ」
「それがね、今日みさと飲む約束した本当のテーマなんだけど、、、」

飲んでいるからか、私にとって本当に不要な会話だったからなのか、その後の会話は何も記憶に残っていない。
だが、どうやら杏奈は彼氏に誘われてフランスにデートをしに行くみたいな、自慢とも惚気とも取れる話をしていたような気がする。

「でね、2026年の5月1日行こうって!!」

この言葉だけが、私にとっては何か引っかかりを覚えた
唯一記憶に残った言葉だった。

#2
飲んだからか、くだらない話に辟易したのか、翌朝の体調はあまり芳しくなかった。
LINEをみると、杏奈から今日の私のスケジュールを抑えようとしているらしいメッセージが残されていた。

「ごめんね、今日は1人で飲もうかなって思って」

送信を押すと、何もかもを手放したような音がやけに頭に響いて、少しだけ気が楽になった。

気怠い体を起こし、どうにか今日を乗り切ろうと、気合いを入れて目的地を入力した。

仕事が終わり、足が棒になる思いでたどり着いた場所は、ひっそりと暗がりの中に佇む一軒の飲食店だった。
TENDAという看板のアルファベットの字体からみるに、少し小綺麗にまとめたバーを期待していたが、入店と共に鼻腔を刺激するチーズの香りは、どうやらそこがイタリアンであるらしいことを物語っていた。
カウンターに案内をされ、SOTAと書かれた名札を付けているオーナーらしき人が、まるで郷愁の友に会ったかのような笑顔でメニューを目の前に開いた。
よく見るイタリアンとは様子が違うことは一目でわかった。

「うちは、イタリアンではないんです。人それぞれが考えるスタイルって言うのが、僕の考えるTENDAなんです。」

男の常套句なんだろうが、その言葉はどこか魅力的で、つい惹かれてしまう何かがあった。

メニューに視線を戻すと、一つだけどうしても読み飛ばせない、何語かも分からない言葉が書いてある。

Grappa Erbe

「グラッパエルベ」

ハッとすると、男は待っていたかのようにグラスを持ってそれを注いだ。

「この店で全然売れてくれないから、僕がたまに飲んじゃうんだよね。特別だけど、何か気になってるみたいだからチャージの中で精算しておくよ」

私が見透かしているであろう彼の奥底とは裏腹に、注がれていくお酒と水は混ざり合って、季節外れのクリスマスローズのような色をしていた。独特な香りが鼻をくすぐる。味は、単一の言葉では表現できない、忘れさせないって語りかけるような刺激に溢れている。

「初めて飲む味」

「そりゃそうだろう。だけどただ一人、この独特な味を美味しいって、忘れられないって思って飲み続けた人がいるんだ。それが、、、」

#3
誰も、彼のことを評価しなかった。
周りの人々は村におかしな奴が来たと噂を流し、彼は普通に歩くことさえままならないほど、忌み嫌われていた。

彼らの評価はあながち間違っておらず、噂で流れていた彼の二つ名はanonimo tossicodipendenteを取った、
Anoni dipendente(無名の中毒者)だった。

けれど、彼を唯一信じ続けた弟は必死に彼の汚名を払拭しようと、彼の絵を売り続けた。

彼の絵は、現状を悟るには十分すぎるほど、精神を反映していた。
特に、椅子のみが描かれた絵が届いた時は、唯一の理解者である弟にさえ、彼は終わったと思わせるほど荒んでいた。
彼の絵を理解するものはどこにも現れない。弟である僕だけが、唯一の理解者なんだ。
そう思って、彼の絵を妻には内緒で身銭を切って購入したこともあった。

電話がなる。

「もしもし」

それは、聴き覚えのある兄の声だった。
その声に安堵のため息をついて、気を緩めかけたがどこかおかしい。
特に、周りから聞こえる喧騒は、どうやら只事では済まされない何かを感じ取った。

「血が出ているわ!医者を呼んで!」

聴き覚えのある、耳心地の良い兄の声は最悪の一言だけを述べて、幕を下ろした。

「耳を切った。全てが嫌になったんだ。すまない」

唯一の救いは、彼の居場所だけ特定できることだった。
そこは、彼が確信を持っているだけで誰も保証をしてくれない。絆とか、愛とか、いわゆる心のつながりのような場所だった。

「今からだと明日の午後に着く。ヨハンナには申し訳ないが、致し方ない。」

身なりを整える暇もなく、遣いに手紙だけを頼み家を出た。

「兄さん」

彼が形相を変えその場所へ着くと、兄は微笑みを向けていた。何が彼を微笑ませているのか唯一の信奉者にも分からなかった。顔面には包帯が巻かれ、目だけが優しそうな笑みをむけている。
彼の片手には白く濁り澱んだ、二つ名の元凶になっている液体が持たれていた。

「兄さん、、、」

諦めようかと思いながら、どうにか保ち続けてきた。
兄への愛が、どうにか彼を繋ぎ止めていた。
しかし、当の兄は毒に中りながら、周りに奇妙な現実を突きつけながら微笑んでいる。
医者の診断では、
「強い幻覚と衝動への抑制が効かない様子」
とだけ書かれていた。

事を問いただすと、兄は娼婦に自分の耳を送ると言う狂気に走ったとのことだった。

弟には何も分からなかった。
兄を信じ続けることだけが、彼の宿命だった。

「テオ、すまないことをした。飲みすぎたようだ」

兄は掠れた声で、イタリア混じりの奇妙なフランス語でそう言った。

彼の飲んでいるその液体が、どのような特効を彼にもたらせているのかは分からない。
医者は4年ほど前から止め続けていたが、とうとう兄を狂気に走らせるまでになってしまった。

「兄さん」

#4
数年の月日が立ち、狂気の兄も落ち着きを取り戻したようだと報せを聞き、テオは普段通りの仕事に戻っていた。

兄を突然の衝動に駆らせるあの酒は、一体何者なんだろう。彼を救うのは、どうすれば良いのだろう。

そのことばかりが頭から離れず、一刻でも早く元に戻って欲しい、そう思うことしかできない自分が悔しかった。

彼の元って何だろう。

ふと、考えの間隙を付くように思い直す。
彼はもとよりこんな性格だったのだろうか。
子供の頃、僕らは兄弟以上の愛を互いに確かに感じ取り、日々を生き抜いてきた。
彼を狂わせるあの酒は、あの酒自体が狂わせるのではなく、彼を失望させる何かが、あの液体に救いを求めるようになった狂気そのものがどこかにあるはずだと、テオは考えだしていた。

そして、兄の元へもう一度行こうと決意し、翌朝彼は職場に置き手紙をおいて発った。

#5
「テオ」
そう呼ばれて、ふと目が覚めると幸せな空間が広がっていた。兄が、最愛の友が自分の名前を呼んで目を細めている。しかし、彼の目にはどこか儚く、世を憂うような想いが宿っていた。

「ほんとうにすまない事をした。だが、俺はテオを信じているし悲しませるつもりはないんだ」

「いいんだ兄さん。兄さんが僕を信じてくれていることは知っている。僕が見てきた兄さんの絵には寸分の狂いのない、フランスへの情熱と愛が込められているんだ」

「フランスへの愛か、、、」

フィンセントは、おもむろに棚を開け一枚の大きな画板を取り出した。

「これは、僕が友人にも内緒でお前にも内緒で描いた傑作だ」

それは、さまざまな顔を持つひまわりだった。
誇らしげに、堂々としている顔もいれば、儚げに明日を憂う顔もいる。時折泣いているようなひまわりもいた。

「友人が来る前に、どうすれば1年を照らすことができるのか考えたのだ。その時ふと思ったのがこの絵だった。友人にはとてつもなく好評で、この絵をくれとせがまれたが、お前に見せていなかったからそこまで待てと言った」

テオは目の前を照らすその絵をまじまじと見つめていた。この絵はどうみても兄さんの絵だ。だが、テオの目には誰かが描いた兄さんにしか映らなかった。常に弟を憂い、微笑みをかけてくれる兄さんの顔。そして、村から憚られ忌み嫌われた兄さんの顔。どれもがフランスに対するフィンセント自身の顔のような気がしてならなかった。

「兄さん、、、」

「テオ、なぜ泣いているのだ。俺はお前を泣かせるためにこれを描いているわけではない」

「違うんだ兄さん。兄さんは、いつでも明るくいるべきなんだ」

「お前といる時はずっと明るいじゃないか。世に嫌われても、お前さえいてくれれば俺は幸せなのだ」

兄さんは、無名の中毒者なんかじゃないんだ。
彼は、フランスに憚られて助けを求めるために、あれを飲んでいるんだ。どうにかしないとまた、、、

「兄さんは僕の最愛の友人なんだ。僕が居なければ幸せにならないのなら、いつでも僕は兄さんのそばにいるよ」

「そうか。ありがとうテオ」

明くる朝、大きな物音と共に目が覚めたテオは異変に気がついた。
あの液体が空いている。
どうやら、フィンセントが飲み干したらしかった。

「兄さん!!」

テオが叫ぶと、部屋の中で自身の声が響き渡り、当人が居ないらしい事実だけが浮き彫りになった。

「どこに行ったんだ兄さん!」

慌てて窓の外をみると、フィンセントが、稲穂の中をまるで孤高の戦士のような姿で進んでいるのが見えた。

「何をしているんだ!兄さん!!」


窓から叫んでも、振り向くそぶりさえ見せない彼はどうやら何かを決意しているようだった。
木陰の下まで辿り着くと、フィンセントは一度だけテオへ振り返り、また奥の方まで進む。彼は、微笑んでいるようで泣いていた。

まずい。何かがまずい。


しかし、彼を掻き立てる何かは到底テオには止めることのできない、大きな決意そのものであった。

すぐに支度をして、フィンセントと同じ場所へと向かおうとした時、テオはひまわりの画板の下に、手紙が置いてあるのが見えた。

テオ
お前は私の最愛の友であり、家族である。
私が飲んでいる酒は、フランスでは禁酒となっていて本当は飲んではいけないものだ。
しかし、お前が指摘した通りで私はフランスを愛し、情熱を傾けてきた。そしてお前にも愛を捧げた。
それは、言わば届かぬ愛なのだ。
眼前にうつる太陽が、触れることのできぬように、お前も、そしてフランスも私の愛は届かない。そんな世界に生きるくらいならば、触れることのできる絵そのものや、この酒を浴びることで生きていけることの幸せを私は選択する。
テオ、すまない。私の弱さで迷惑をかけた。
これからは自由に、そして本当の私の太陽として、光り輝いてくれる事を信じている。
フィンセント

読み終えるや否や、稲穂の向こうから大きな音が聞こえ、鳥たちが一斉に飛び立った。

「兄さん!!!」

テオは慌てて走り、木陰で血を流しているフィンセントの元へ駆け寄った。

「テオ、、、すまない。本当にすまない事をした。愛せていなかったのはお前ではなく、私の方だったのだ。私は、フランスも、お前も愛せずに世から憚れていた。そして、それは然るべき待遇だったのだ」

「そんなことないんだ兄さん!
兄さんは必ず世から見直される日が来るはずなんだ!!そのために、今を耐え忍ぶためにあの絵を描いてきたんじゃないか!!兄さん!!」

テオは冷えゆく兄を抱き抱えながら、必死に咽び、叫んだ。しかし、叫びも虚しく、テオの中にいる兄はその魂を、彼自身をフランスに捧げたのだった。

最愛の兄の葬儀は、宗教上の理由から身内のみで行わなければならなかった。
彼の棺には、彼が飲み干してきたあの液体や、彼の描いている途中の絵がふんだんに入れられた。

テオは、もう二度と微笑んでくれることのないであろう、痩せた兄を見つめた。

「兄さんは、必ず有名になる」

その決意は彼の目に、亡き兄の情熱を宿らせていた。

#6
美幸は、男のひょうひょうと語るその世界に入り込んでいた。
男は、語り終えると最後に

「このグラッパエルベも、アブサンのようなお酒でね、そして言語を織り交ぜて訳すと、皮肉なことに『遺産潰し』とか、『相続の放棄』って言う意味になるお酒なんだ。何故か、フランスでゴッホに対して行ってきた人間の悪事のような、ネガティブな名前を持つお酒だよね」

とだけ言い残して持ち場に戻った。

美幸はなぜこの場所が、TENDAという店なのかをようやく理解した。

そう、ここは今までの旅を振り返ることで、織りなしてきた人々の叡智を、行為を、もう一度だけ噛み締めるために生まれた、人々によって支えられる幕引きのない場所だった。

「また来ます」

美幸はそう言うと、季節外れのクリスマスローズを、11月に描かれたひまわりのようなそれを、飲み干して席を立った。

#7
美幸は、高揚する気持ちを抑えながら、男の語ったそのストーリーを隈なく調べた。
煌々と光るディスプレイの中で一つだけ、異様な雰囲気を醸し出しているものがあった。

「なんだこれ」

それは、2008年にある週刊誌から刊行されたもので、他のありきたりな記事とは違う、とても印象に残る記事だった。

「神の使いフィンセント」

タイトルこそいかにも嘘くさいものだったが、抑えきれない想いを感じ、カーソルをそこに合わせた。

「祖父は神学を学び、その名をフィンセントと言った。孝明な彼は神学を突き詰め、1811年と言う年代では非常に珍しい、学位の取得者であった。」

非常に質素な書き出しとは裏腹に、美幸の中で重ね合わさるものがあった。
それは、ゴッホの祖父の名だった。

「美しい幸」

自然と独りごちたその自己紹介は、新雪のような柔らかさと、真水のような透き通った響きを持って宙を舞った。

【AfterGlow】
「ただいま」

「おかえりなさい、どうだった?今日は」

「非常にセンスが良い人に出会ってね。その人がとても印象的だったよ。」

「あなたが言うなら、その方は本物だね」

「あ、そう言えばこれ」

男の手には、turkish airlinesと書かれたチケットが握られていた。

「えー!嬉しい!!私も頑張らなきゃだ!」

男は、目の前の彼女を見て安堵のため息を着いた。

「買うなら、今日かなって思って」

優しい光に包まれるその部屋で、彼らは今日を紡ぐために支え合っていた。





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