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A・Novel
ーーーー明日死ぬとしたら、生き方が変わるのか。
『エルネスト・ゲバラ』
#1
のれんをくぐると、どうやら式典の2次会らしき団体が活気のある飲み会を繰り広げていた。彼等は最近話題になっているテーマを語るのが趣味なようで、ご祝儀の中に新一万円札を封入することの愚かさがこの時の主題だった。
「この人偉大な人だけど、女たらしで有名だったじゃん!」
「そうそう、この前の結婚式だってそれに気を遣って5000円札で入れてきた人が居たわよ」
「そんな気遣い必要なのかなぁ。ご祝儀の値段とかなら分かるけど、人に対してまで考え出したらキリが無いよ」
亮は彼等を横目に通りすぎながら、いつまでもくだらなく気怠いその空気に辟易としていた。
「生をお願いします。」
大学生なのに一人で飲み屋街に繰り出すその肝が、自分の取り柄なのだと信じて疑っていなかったが、いざ目の前で楽しそうに繰り広げられる和気藹々は、大学生の自分には羨むしか手段がなく、自身ずっと小さな存在なのだと言う事実を浮き彫りにしていた。
スマホを見ると、勝手に仲が良いと豪語してくる拓巳から、今日一人で居ることを見透かすような、いわゆる「お誘い」が届いていた。
「うざ、、、」
そう独り言ちながら、断りを入れ、いつの間にか3杯にまで達していたビールを一気に飲み干した。
#2
外に出ると、東京の夜は冬の冷たさとは裏腹にいつになく優しい空気で満ちていた。街灯が寒さで白くほんのりとぼやけ、造られた初雪のような光を射しながら佇んでいる。
このまま帰るつもりだったが、外の空気に心が軽くなり、近場にあった洋風の居酒屋に足を運んだ。
いざ店頭で立ち止まると、休業しているのかと錯覚するほど静かな店だった。
古びた木製のドアを開け、店内に足を踏み入れる。
よほど昔ながらの店なのか、湿っぽい木材の匂いが手に染みついていた。
誰一人としていないその空間。
まるで、異国の地に唯一人放り出されたかのような孤独感。
いつもなら引き返していたが、なぜか今日はカウンターの真ん中を陣取り、メニューがでてくるその瞬間を楽しみにしている自分がいた。
「いらっしゃい」
奥から現れた店員と思わしき人は、20代くらいの若い女性だった。
自分と同年代のはずなのに、同年代とは思えないほど大人びていると思った。赤色に染め上げたのであろう長い髪は、まるで秋を名残惜しんでいるかのような色に落ちていて、ミレーの名画を彷彿とさせるほど独特な色をしていた。
「ごめんなさいね。うち私独りで経営していてメニューも無いのよ」
「いえ、、、」
言葉を失いながらもようやく出た一声は、静かだからこそ余計に消したくなるほどか細い声だった。
「お姉さんの、おすすめがあれば」
自分でも緊張しているのが分かった。
「じゃあ、この飲み物が良いわよ」
慣れた手つきで透明な瓶を2本手に取り、グラスに混ぜながら注いでいく。
それは、独特な色を醸し出していた。
居酒屋を出たときに見た、あの街灯と同じ色。
優しく見守るようで、自己犠牲をいとわない強い白色だった。
「きれいな色でしょう?このお酒の名前、不吉な名前なのに魅力があるのよね。まるで生みの親みたい」
#3
彼は、フランスでの妻との豊かな暮らしを省みながら、自分自身がとうに手遅れであることを悟っていた。
若かりし頃、カフェにたむろする成金達を横目に、どのようにすればこんな汚い人間にならないで済むかとばかり考えていた自分が懐かしい。
今となっては、女にも酒にも、コーヒーにも溺れ、名声と誇りだけを高々と掲げる、濁った人間になっている自分を否定できずにいた。
それは、目の前のテーブルに広がった薬剤の数々が勘違いではないことを語っていた。
自責の念に囚われながら、それでもなお自身を曲げられない性格が、仇となりつづけたのである。
旅情を書き記していたつもりが、いつしか自戒の書のようになりつつある自分の筆跡を見て、考えるのをやめた。
席を立つと、長らく座っていた椅子が安堵したかのような音で軋んだ。
メゾンマムと書かれた瓶を手に取り、グラスに注ぐ。
細やかな泡が内に弾け、黒色火薬を入れるには勿体無いほど綺麗だった。
その飲み物は、唯一彼ができる贖罪そのものだった。
彼が巻き込んだ全ての人に対する断罪のために、鼻腔を刺す強い香りを放つそれを一息に飲む。
死を彷彿とさせる味だった。
#4
彼は、旅の記録を正確に記すためにカフェ・クレームに来ていた。
そこは、かつての妻ハドリーと共に幾度となく通った第二の家のような場所だった。
彼にとって、パリでの生活には妻が必ずそばで支援してくれていた。
ハドリーは金銭的にも家系にもゆとりのある、いわば理想の妻であったが、何よりも自身とのつましい生活を敢えて楽しみ、そこに自ら幸福をつかみとってゆく姿が、最も彼の心を動かしていた。
「はぁ」
思わずため息がこぼれた。
カフェ・クレームの壮観な景色を見ることのできるこの特等席は、今や彼が独占している場所だった。
隣にも、真向かいにも妻は居ない。
見慣れていた景色のはずだったのに、全くもって異なる印象を彼に与えた。
思い立つように彼は、浅く焦げた茶の鞄から電話を取りだした。
呼び出し音が4回鳴ると、かつて聞き覚えのある声が電話ごしに語りかけた。
「もしもし」
それは、ハドリーの声だった。
「元気にしているか。ハドリー」
「今更何のよう?タティ」
彼女は、敢えてその呼び方をして見せた。
しかし彼にとってその言葉は、本来の意味でしか捉えることのできない、鋭利な刃物のようなものだった。
「今、パリのとあるところに来ていてね、私が過ごした旅情を記録として記述していこうと考えているんだ。そこで、君との生活を記述していたんだが、、、」
思わず口を吐いて出たその言葉は、自分の意思と全くもって裏腹な言葉であり、嘘そのものだった。
「そうなの。けれど、私あなたとの暮らしは本当に楽しかったわ」
「そうか。それは良かった」
幾度か会話をしたような気がするが、それ以降の会話は何も覚えていなかった。それよりも、前妻が今無事に暮らし、素敵な生活を送っている事そのものに安心していた。
#5
自身が書いた小説は、キリスト教の祭日のような旅路だった。
それは、単に彼自身の思い出や風景がそう思わせた訳ではない事は、自分自身が誰よりも理解していた。
憧れの地にハドリーと赴き、そこで知り合った小説仲間や芸術家の面々、時にみすぼらしく、時に頼りがいのある男仲間達、忌み嫌うほど批判をするブルジョア。
そのそれぞれが彼にとって自身の行く末がなんたるか、そして奇妙な現実がなんたるかを教えてくれた、まさに宗教画のような旅路だった。
青年期に憧れたパリで、様々を学び自分の人間性を磨き上げることができた。当時流行していたレトリックな女々しい文体は、彼にとっては興ざめで、暴言を吐いてでも端的にまとめることの如何に美しいかをとにかく主張した。
それゆえに、彼含め端的な表現をする作家たちは、総称して「アメリカ的」と呼ばれるようになった。
野生が本質であると信じて疑わなかった。
人間の知性は野生に負けるのだと、そう信じてきたからこそ、今の彼があるのだ。
しかし、彼はその純真さ故に3人の妻に見切りをつけられ、今や1人、酒乱と化しているのであった。
#6
キッチンでいつもの如く執筆の間に酒を飲んでいると、ふと自身の父親がどのような人物だったのか不思議に思った。
自分を育て、勝手にいなくなった父は何を思っていたのだろうか。
私は、父にどれほどの深い愛情を注がれここまで生きてきたのだろうか。
事実、父は多くを私に与えていた。
釣りに行くとき、どのような装備をするべきなのか。
ボクシングでは、瞬発力では到底覆いきることができない知性の豊かさを学んだ。
そして、狩猟に行く際にどのような猟銃を所有するべきなのか。
多くを彼から学び、多くを彼から培った私は、気づけば様々な賞を受賞するほど著名な人間になることができた。
彼の本業が医師だったなんて、未だに信じることができない。
一方で父は皮肉にも臆病で、自分から逃れるかのように愛用のその猟銃で人生にとどめを刺した。
しかし、それは本当に臆病だったのだろうか。
「クラレンス、、、」
彼は父の名をつぶやいて愛用の猟銃を手に取った。
私にとって父は真の男だった。
男とは、自身で死期を選び抜き、死にゆく運命にひるまない事だと、そう思った。
「クラレンス、あなたは私を置いていったのでは無かった。私に対していつまでも男であるために、その背中の老いゆく様を見せないために、独り決したのだろう」
充てもない空間に独りそうつぶやくと、彼は引き金を引いた。
静かな空間に残ったのは、紅の差す夕日と独りの男だった。
#7
「これはね、ヘミングウェイが考案したお酒なの。当時は黒色火薬をシャンパンに垂らして飲むのが主流だったみたいだけど、あまりにもだと思われてアブサンに変わって、禁酒になってからはペルノーが使われることが多いわね」
亮は、彼女の話の一つ一つを夢想しながら聞いていた。
彼の脳裏に染みついたその男の姿は、当時思い描いていた酒乱の女たらしとはかけ離れた背中をしていた。
「彼、野生というものを非常に重要視していたみたいで、なのにこんなお酒まで考案しちゃうなんてすごく魅力的よね」
「確かに、こんなきれいなお酒を気に入って飲んでたなんて意外ですね。当時はもう少し濁っていたんだろうけど」
ようやく自分でも自然なことを言えるようになって少し安心していた。
「そうね、けどその濁りこそ本当は彼の求めていた色で、景色で、野生そのものだったのかもしれないね、、、」
目の前で淡々と話す彼女は、どこか遠くを見ているような目でそう語った。
彼はこの一杯で長居し続けていることに気づき、会計の支度をした。
「すみません、こんな長く、、、」
「いいえ、すごく楽しい時間だったわよ。いつでもまたおいで」
そう言う彼女は、初めて微笑しているような気がした。
「ありがとうございました。あ、そういえばこのお酒の名前って結局なんだったんでしょうか」
「あら、言い忘れていたわね。これは『午後の死』っていうお酒なの。薄気味悪いけど、彼らしいわよね」
店を出ると、東京の夜はいつもより冷たい風が撫でていた。
街灯を見ると、冷たい空気に浮かび上がる一筋の光が煌々と照っていた。
それは未だ予期せぬ未来を待ちわび続けた、彼のようだと思った。