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愛するということ

柄でもないが、「愛する」ということについて考えてみた。

数年間いっしょに暮らしていた人と先日入籍した。紙を提出しただけでたいした変化はなかった。それでもせっかくの機会だから、考えてみようと思ったのだ。人を愛することについて。

そこでまず読んでみたのが、家の本棚にたまたまあった新訳版『愛するということ』(紀伊国屋書店)。『自由からの逃走』で有名な社会学者、エーリッヒ・フロムが書いた本だ。夫がだいぶ昔に買ったらしく、中途半端な位置にしおり代わりの名刺が挟まっていた。おそらく最後まで読まずにフェードアウトしたのだろう。


愛するということ…いま読むのにぴったりじゃん!


入籍の前日、わたしはその本を持ってカフェに行った。

しかしこの本、甘い文句が書いてあるのかと思いきやまったく違う。フロムはなかなか手厳しい。たとえば冒頭からこんなことを述べているのだ。

愛というものは、その人の成熟の度合いにかかわりなく誰もが簡単に浸れるような感情ではない
自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向くよう、全力をあげて努力しない限り、人を愛そうとしても必ず失敗する

うわー、厳しい。わたしなんてまさに失敗する人間やん。

いきなり面食らった。

でも人と人との関係性だ。夫婦といっても他人である。たしかに多少の努力はしないといけない。「そのままのわたしを受け入れてほしい」というのが本望であったとしても。

気を引き締めるには良さそうな内容だと思った。

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この本はわたしにとっては「厳しい」姿勢を貫いていた。50年以上前に書かれたものだからなのか、フロムの考え方の問題なのかわからないが、性差に関する表現などに古臭い印象を受ける部分もあった。顔をしかめてしまうこともあった。

でも一部、まさにわたしが感じていたことだ!そうそう!そうだよね!と腑に落ちた箇所があったので紹介したい。愛は与えることである、と述べた節にこう書いてあった。

与えるという行為のもっとも重要な部分は、物質の世界にではなく、ひときわ人間的な領域にある。では、ここでは人は他人に、物質ではなく何を与えるのだろうか。自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ。これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなくて、自分のなかに息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているあらゆる表現を与えるのだ。p46

これがいちばん、わたしがイメージする愛の形に近いと感じた。いや、これならわたしにもできると思った、と言うほうが正確かもしれない。

もう何年もいっしょに暮らしているからか、わたしたち夫婦のあいだには「新婚ホヤホヤ」みたいな空気は一切ない。たとえば胸が高鳴るとかときめくとか、男女として意識するとか、そういう機会すらもほとんどなくなった。

でも夫は、わたしの感じ方や考え方、表現の仕方、生き方を面白いと思ってくれる。本当に変な生き物だと言いながら、応援してくれる。わたしもまた夫の考え方や行動、生き方から刺激を受けている。その意味での「与え合う」ことなら、ちょっとはできているかもしれない。これからもできるかもしれない。そう思ったのだ。


次の文章も少し共感できるような気がした。

誰かに「あなたを愛している」と言うことができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。p77
愛とは、本質的に人間的な特質が具体化されたものとしての愛する人を、根本において肯定することである。一人の人間を愛するということは、人間そのものを愛するということである。p95

人間そのものを愛しているのかどうか、愛せるのかどうか、わたし自身はよくわからない。

でも一人の人間を通して他の人や世界そのもの、自分自身を愛するというのは理解できる。その人がいると世界が明るく見えたり自分の存在を肯定できたりする。これは恋愛において多くの人が感じていることなのではないかと思うのだ。

蒼井優さんもおっしゃっていたそうだ。


「『誰を好きか』より『誰といるときの自分が好きか』が重要らしいよ」

と。

「本質的に人間的な特質が具体化されたものとしての愛する人を、根本において肯定する」という部分では、樹木希林さんの葬儀において娘の也哉子さんがお読みになった名文(*)を思い出した。

ギャンブルや女性関係など問題が絶えず、自由奔放な人生を送った内田裕也さん。彼と別居婚を続けてきた希林さんに疑問を呈したときの希林さんの反応を、也哉子さんは以下のように述べている。

ところが困った私が、なぜこのような関係を続けるのかと母を問い詰めると、平然と、だってお父さんにはひとかけら、純なものがあるからと私を黙らせるのです。

また裕也さんが樹木希林さんに送った感謝と手紙を発見したときの感想を、次のように語っている。

今まで想像すらしなかった、勝手だけれど、父から母への感謝と親密な思いが詰まった手紙に、私はしばし絶句してしまいました。普段は手に負えない父の、混沌と、苦悩と、純粋さが妙に腑に落ち、母が誰にも見せることなく、大切に自分の本棚にしまってあったことに納得してしまいました。

その人の言動の裏にある気持ちや考えを理解するというのも、愛することの一要素だと思う。フロムも愛の能動的な要素の一つとして「尊敬」を挙げ、「人を尊敬するには、その人のことを知らなければならない」と述べたあと、下記のように説明している。

愛の一側面としての知識は、表面的なものではなく、核心にまで届くものである。自分自身に関する関心を超越して、相手の立場に立ってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる。そうすれば、たとえば、相手が怒りを外にあらわにしていなくとも、その人が怒っているのがわかる。だが、もっと深くその人を知れば、その人が不安にかられているとか、心配しているとか、孤独だとか、罪悪感にさいなまれているということがわかる。そうすれば、彼の怒りがもっと深いところにある何かのあらわれだということがわかり、彼のことを、怒っている人としてではなく、不安にかられ、狼狽している人、つまり苦しんでいる人として見ることができるようになる。p52

希林さんは「ひとかけら、純なものがある」裕也さんを根本から肯定していた。彼の言動の裏側にある感情や人間性を見抜き、信じ、尊敬し、愛し続けた。

裕也さんの姿に、人間的な何かを、人間の本質のようなものを感じ取っていたのかもしれない。混沌とした世界と人間という生き物を、裕也さんを通して愛していたのかもしれない。

わたしは也哉子さんの謝辞を読んで、希林さんと裕也さんの関係が究極の愛の形を体現しているように思えて仕方がなかった。

ギャンブルや不倫を肯定したいとも、怒ってばかりいる人や破天荒な人に対して毎回同情すべきだとも思わない。なんでも背景を推し量って許容すべきだとも思わない。きっと希林さんも、一つひとつの言動を快く思っていたわけではないだろう。

でも、我慢と忍耐や自己犠牲によって愛し続けたと考えるのは違うのではないか。

希林さんはただ単に、彼という人間を根本から肯定し、自由な意思に従って能動的に愛し続けた。それ以上でもそれ以下でもないのではあるまいか。


愛するということ。


これがどういうことなのか本当にわかるのは、何十年もあとかもしれない。死ぬときかもしれない。一生わからないかもしれない。

でも意識的であってもそうでなくても、フロムの言うように愛する努力をすることはきっと大切なのだろう。もちろん無理をしすぎない程度に。

わたしには上手くできるかわからないけれど、せっかくの機会だしがんばってみようかな。

そんなことを考えているうちに、出張で夫がいない一週間が始まった。


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(*)也哉子さんの弔辞を読んだときには感動で鳥肌が立ちました。こんな文章を一体どうやったら書けるのだろう、と。記事では一部だけ引用していますが、よろしければ全文読んでみてください。

樹木希林さんの葬儀でのあいさつ

内田裕也さんの葬儀でのあいさつ

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