吉田拓郎とシューベルトが好きだった母
今年5月に、98才で亡くなった母のことを書いてみたい。
母は大正15(1926)年、秋田県由利郡象潟(きさかた)町(現にかほ市)で7人兄弟の年の離れた末っ子として生まれた。県南部に位置する象潟はかつては美しい砂浜を持ち、鳥海山を望む風光明媚な土地である。
母は旧姓を須田という。須田家は船を持ち廻船問屋を営む商家だった。同時に多くの小作人を抱える地主で、東北の小さな町にあってかなり裕福な家だったらしい。7人の子どもには、一人ずつお手伝いさんが付いていたという。
父の正三郎は、母が一才の時に急死している。それ以降は母のユキエが家を守ったが、昭和14年頃から商売が傾き始めた。そのため、兄弟姉妹で母一人だけが、上の学校に進むことができなかった。このことは、かなり残念だったようだ。
女学校を諦めた母は、仙台にある東北大学看護婦養成所に入学した。卒業後は、同大学の医学部外科に勤務した。職場の医師の中に、のちに環境庁長官・農林大臣となった大石武一がいたと、母から聞いたことがある。母は16才だった。この年(昭和16)の暮れには、太平洋戦争が始まった。
昭和19年の春、一人の医師と同僚の看護士と母の3名は、北海道の由仁町に派遣された。7月にはサイパンが玉砕し、日本の敗色は色濃く漂っていたはずだが、19才の娘は銃後を守る使命に燃えていた。母の書き残したものによると、戦争が終わるまで〝神国日本〟の勝利を疑ったことは無かったという。
翌年夏には、北海道も空襲を受ける。物資も食料も窮乏し、母は秋田への望郷の念を強くする。生前に聞いたのだが、帰郷しようとする母を数日待つように説得する人もいたという。それでも母は切符を買い、8月15日の夕方の汽車に乗る予定だった。そして、その日に戦争は終わった。
母はノートにこう書いている。「軍国少女としてまっすぐに育った私にとって、神国日本の敗戦はまったく信じがたい出来事だった。」
少し話が横道に逸れることになるが、書いておきたい。
母(父も同じ)の生まれた大正15年は、昭和元年だ。この年から続く10年くらいの間に生まれた子どもたちは、戦前の教育を一身に吸収して受け入れた世代である。昔よく言われた「昭和一ケタ世代」で、受けた敗戦の衝撃も大きかった。
これより少し後に生まれた子どもは、受けた教育や戦争そのものの記憶が薄くなるし、逆に何才か年長であるだけではるかに客観的に日本を見ることができた。父のことを書いたときにも記したことだが、1才年上の三島由紀夫や、さらに2才年上の吉本隆明がそうだ。彼らは「現人神」を(私の父母のようには)真に受けてはいなかったろう。付け加えると、彼らが東京人だったことも無縁ではないと思っているが、これらは私の主観にすぎないことも承知している。
話を戻す。
戦後が始まり、ここから母の職業婦人としての、筏(いかだ)で海に漕ぎ出すような人生が始まるわけだが、それはいずれ書きとめてみたい。
しかしひとつだけ母のエピソードを紹介したい。それは、私が父から会社を引き継いだときのことである。
40代の初め、私は数人で経営の勉強会に参加していた。定例会の別れ際に、教えを受けているK先生にこう問われた。「君はなぜ社長にならないのかね?」
父が譲らないのでなりたくともなれないのです、と私は答えた。事実、そうだったのである。しかしK氏はお構いなしに続けた。「そんな事情は聞いていません。次に会うときには社長になっていていただきたい。それでは。」と言って、歩いて去って行った。
数日後の朝、まだ社員が出社してくる前だったが、父と私は口論になった。いつものことではあった。しかしこのとき、私は会社を辞めると言ってしまい、そのまま帰宅した。
会社を辞めてきたと、妻に言った。
あ、そうと言うと妻は「だったら今日は二人で遠出をして、美味しいものでも食べよう。」と、出かける支度を始めた。二人で**まで行き、昼前から温泉に入った。湯から上がったところで、携帯電話が鳴った。
母だった。すぐに実家に来いという。母が本気のときの口調だった。
実家に着くと、どうして会社を辞めるのかと母は訊いてきた。私は、経営ができないのなら会社にいる意義も意味も無いからだ、と答えた。すると母は父に、会社を譲りなさいと言った。
父は、譲ったら会社が潰れてしまうのだと言った。そうなったらそれで仕方が無いから譲りなさいと、母は言った。父はお金の話を持ち出した。そのころ資金繰りが苦しく、会社は母から大金を借りていた。「会社が潰れたら、あなたのお金も戻ってこないよ。それでも良いのかい?」父は、諭すように言った。
「良い。そのときは、仕方ない。」
それは淡々とした、まったく迷いの無い母の返事だった。父は次の返答に窮した。そして言った。分かった。社長を譲ろう。
すぐに代表者変更の手続きを始めた。何故かこのとき、私はすべての手続きを自分の手でしようと思った。慣れない手続は意外とスムーズに運び、2週間くらいで完了した。こうして私は日本に380万社(当時)ある零細企業の社長になった。
一ヶ月後、再会した講師のK先生に会社を引き継いだことを報告した。先生はアッサリしたもので、ハイおめでとうと、一言それだけだった。いつまでも社長になれないのは、私の覚悟が決まらないからだと、以前から見抜いていたのである。
おそらく母も、分かっていた。私を呼び寄せたあの日、母が私に示したのは何かを為すときの覚悟だった。私が社長になり、筏を海に漕ぎ出す決心をしたのなら、それで大金を失うことになっても悔いはないという覚悟を、母は見せてくれたのだ。
5月24日、子どもたちと孫に看取られて、母は自宅で亡くなった。満98才だった。40年以上看護師長として働き、町の議員をしていた時期もある。かつての仲間のほとんどは、すでに亡くなっている。自身は多くの葬儀に列席して人を見送ったが、母を見送る者はもう誰も残っていない。弔いは、家族とごく一部の人ですることにした。
お通夜にあるご夫婦が来た。80才を過ぎているだろう。
僕のこと分かるかい?と訊かれたが、某市の議員だった人だとすぐに分かった。120キロ離れた市から、自分で運転して来たという。
内容は言えないが、僕くらい君のお母さんに恩義がある人間はいないんだと言った。隣で奥さんが笑いながら頷く。私は、ホテルに部屋を用意したのでお泊まりくださいと申し出たが、翌朝どうしても所用があるのだと、夜のうちに帰っていかれた。
50才前後の女性が来た。新人看護師のとき、母の下で働いたのだという。私は本当にお世話になって育ててもらったんです、と手を合わせていかれた。
80代の女性がこんな話をしてくれた。
結婚前、一間のアパートに住み、そこで洋裁の下請けで生計を立てていたのだそうだ。そこへ母が生地を持って訪ねてきた。
スーツを仕立ててほしいという依頼だった。女性用のスーツは出来ないと言うと、母が形の説明をした。必死で初めての女性用スーツを母のために作った。それを知った若い看護婦さんたちが、ワンピースを作ってくれと頼んでくれるようになり、しだいに仕事が軌道に乗ったのだという。母のスーツは3着作ったと、話してくれた。
母はお洒落が好きな人だったので、たくさんのスカーフや帽子や洋服が残された。孫娘が洋服タンスからスカーフを引っ張り出してきて、「首が何十本あっても足りないな」と笑っていた。
棺には見覚えのよくある帽子を入れた。モノは不思議だ。母がよく被っていたその帽子を見たときに、涙が滲んできた。
父と母は無宗教だったので、仏式とは異なる葬儀になった。会ったときに、葬儀屋の社長さんが言った。長年この仕事をしていますが、無宗教の葬儀は7年前のお父さんの時の1回だけです。ですから忘れないように取ってあります。そう言って、父のときの式次第の紙を持ってきて見せてくれた。おかげで式は、スムーズに進行した。
式では焼香もお坊さんの読経もない。私や孫のような親族と、母をよく知る人が母の思い出を語るだけである。そして、花を一輪ずつ捧げる。
(いわゆる)告別式が終わり火葬場へ向かう車の中で、葬儀屋の社長さんが言った。
無宗教の葬儀って良いものですね。いつもより故人を身近に感じます。あ、これはここだけの話にしてくださいよ・・。
母は音楽が好きだったので、式場で母の好きな曲を流した。ユモレスク、ローレライ、浜辺の歌、シューベルトの子守歌・・。母はシューベルトが好きだった。
意外なことに、吉田拓郎も好きだったので、数曲流した。拓郎よかったよと言ってくれた方もいた。私も『流星』が聞こえたときは、少しジンときた。良いお別れができたと思っている。
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