村田紗耶香「消滅世界」 書評

河出文庫からでている村田紗耶香氏の「消滅世界」をよんだ。たいへんおもしろい内容だった。文庫版解説は精神科医の斎藤環氏。

主人公の女性の子供時代から大人までの半生でなにが起こったかを追うストーリーになっている。世界半はSFのようである。そこでは人間同士の肉体的な恋愛がある種タブーとされていて、主人公の幼少期の章におけるテーマでもある。

肉体的な恋愛がいけないという「子供のような」おまじないじみたタブー視によって主人公の恋愛はさまたげられるわけだが、それではなにが恋愛のスタンダードになっているのかといえば、今でいう「推し」、つまりは現実にはそんざいしない物語(たとえば『鬼滅の刃』)に登場するキャラクターなどに抱く感情なのである。たしかに、世間においては「ガチ恋」などといって、「推し」にたいして本気の恋愛感情をむける層が一定数そんざいする。
また、やはり「推し」との恋愛においては身体性はまったくもって消失しているのである。それでは、身体性の消失=高尚な恋愛という構図が作品世界のなかで出来上がっているのか。

また、小説内において、一章でくりひろげられる世界は子供のみによってつくられる世界観だということにも注意しなければならない。子供のみによって完成された共同体、たとえば「先生のいない教室」。一章における世界では大人は干渉されないところにそんざいしていて、大人は子供にむけて「世間においての常識」を伝播させるそんざいに終始している。

終章においては主人公の夫が男性でも妊娠できる技術なるものを駆使し、夫が出産する。主人公も妊娠していたが流産してしまう。夫の妊娠から出産にいたるまでの話の筋は一章とうってかわり、一見まったくもって身体性を意識させるものである。とくに夫の「妊娠袋」がふくれていくさまの描写などは不快感をいだかせるほどだ。

ただ、これはほんとうに身体性なのだろうか。かれの妊娠しているさまはわれわれ読者の想像によっておぎなわれ、それにわれわれ読者は不快感をいだく。そもそも夫が妊娠するためにつけている器具は夫の肉体そのものではなく、いわば拡張された「身体」である。それは、技術をもって補われた人口のものであり、また足が欠損した人のための義足とはちがい、凹をおぎなうものではなく、まったく平板な土台のうえにむりやりすえつけられた機能といっていい。これは「身体性をもたない性愛」のひとつの暴走の結果としてあらわれる。

まったくバーチャルな創造上の身体であるために、本来の身体の輪郭からはずれた異常なかたちをもっているからこそ不快感をいだくのだ。そこにあらわれるものは身体性ではなく、反身体性というべきものではないか。

ただ、この事態はとくに作中において異常事態としておきているわけではなく、作中世界において順当な思想のつみかさねを経ておこる。おこるべくしておこったものである。夫の妊娠が登場するまでに、「恋愛」「結婚」に従事する人々はとことん記号化される。それは一章における「推し」への恋愛における恋愛対象の人物の説明──かれらの肩書、話の筋書きにおけるかれの立ち位置を列挙する文章、「恋人」と「婚約者」が併存する二章からは人物たちのもとめるものが記号化されたうえで交換可能なものへと変化する。終章で登場する「おかあさん」の子供たちは「お母さん」にたいする子供の記号として個別性をまったく奪われてしまっている。たとえば、「背の高い男の人」であるとか、「金髪の女の子」だったり、そうしたハッシュタグのような特徴の記号化ではなく、存在そのものが「子供」の記号としてくくられているのである。

最終的にヴァーチャルな身体性が登場した土台には「記号化」された恋愛、結婚、それに従事する人々がある。

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