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「推しが尊い」とは何か?

私には去年の9月頃からYouTubeでとあるジャンルに没頭するようになった。

「Vtuber」だ。

「推しが今日も尊い」

これはTwitterの中で、半年前頃から私がよく目にするようになった言葉だ。「推し」とは自分の好きなアイドルやキャラクター、さらに言えば自分の生活の活力や支えとなっている重要な存在のことを指す。

「尊い」とは、辞典的に言えば価値や身分の高いことを意味する。つまり、受け手(消費側)が自身の推しである彼ら彼女らの存在からエネルギーを得ることが出来る、あるいはまだ自身が推しに没頭できている状態のことを指している。

以上が、私がTwitterでこの言葉を見かけて以来、なんとなくこうだろう、というイメージを集めて言語化した説明のようなものである。(異論反論あるとは思うがそれは各自のTwitterにて呟いてもらいたい)

ただし、私がVtuberを観ている時、上述した説明とは異なる、「推しが尊い」という言葉の本質に近いと感じる時がある。

それは、Vtuberの彼女たちに血が通ったと感じる瞬間である。

(勿論Vtuberにはいわゆる”中の人”というものが存在するため血が通っているのはそれはそうなのだが、ここではVtuberの2D、もしくは3Dキャラクターについての話である)

私もVtuberのアイドルを観るようになってからこの「推しが尊い」という状況をしばしば経験した。推しへ「スーパーチャット(YouTubeで行われるいわゆる『投げ銭』)」を送ったり、グッズを購入するためこれまで参加したことのなかったコミケへ参加したり、Twitterで推しの配信についてハッシュタグをつけてツイートを投稿したりなど、所謂「推しごと」というものを行うようになった。

電源が入りっぱなしの私のPC画面では常にYouTubeにて推し達の生放送やアーカイブが開かれており、6畳程度の私の部屋にはスピーカーから聞こえるその話声がBGMとして流れ続ける。そのため外出した際には外の方が静かに感じることなどしょっちゅうである。

現実には理不尽な出来事や不快な気持ちにさせる出来事が珍しくない。しかし、配信にはそのようなことは無く、テレビのバラエティ番組のような押しつけがましいSEなども存在しない(※個人の感想です)。あくまで配信者一人(場合によっては複数人)の話やリスナー(視聴者)との対話によって成り立つ。つまり配信を面白くするのは配信者のトークやリアクションのみだ。そして、普段はVtuberのモデルに沿ったキャラクターを演じている配信者達が、ふとした瞬間に見せる、人間性や周囲との関係性など、設定資料やアニメのような固定されたプロフィールには存在しない独自の味を見せた時に、血が通ったと感じるのである。

私はここにこそ、真の「推しが尊い」を感じるのである。

Vtuberの放送は面白い。しかし、面白いものを求めるのであれば他にも刺激を与えてくれるコンテンツなど今の世の中幾らでも存在する。ならばなぜ、Vtuberの彼女たちをここまで追う必要があるのか。

それは単に、「推しが尊い」の一言に尽きる。



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