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ベルリンで35年前の文通相手に初めて会った。


1983年 文通開始

1983年、中学3年生の英語の授業の一環で「海外のお友達と文通しよう!」という企画があった。相手国はニュージーランド、西ドイツ(当時)のどちらかで、おそらく姉妹校同士の共同企画だったのだと思う。

当時はインターネットなど影も形もない。外国との文通と言えば、向こう側が透けて見えるようなペラペラの薄紙の便せんに床屋さんで見かけるような赤と青の交互の縁取りの付いた封筒。もしくは折りたたみの郵便書簡。航空便で1~2週間、船便なら相手に届くまで2カ月くらいはかかるという時代だった。

当時、文通相手はペンパルと呼ばれていて、国内でもペンパルのいる人は結構多かったように思う。いろんなことがのんびりしていた。

募集人数は各国5人くらい、相手はランダムに決まるとのこと。英語の先生が授業の時にかなり熱心に勧めてくれていたが、なぜか応募する人は少なかった。

誰もやらないならせっかくだしやってみようかな。

所定の用紙に住所と名前をアルファベットで書き、簡単な自己紹介や趣味などを書いて先生に提出した。後日、相手国の生徒の誰かからお手紙が来るとのこと。

どんな人からお手紙が来るのかなと思って、ちょっとワクワクしながら待っていた。

約2か月後、赤と青の縁取りのついた封書の手紙が届いた。
ペラペラの航空便の封筒には「West Germany」とある。西ドイツだった。

相手も同じ中学3年生のはずだが、結構長文の手紙が入っていた。辞書を引きながら解読すると、西ドイツに住む男の子で、何と読むのだろうか、日本語では読めないような名前だった。

彼の名前をマイケル君(仮)とする。マイケル・ジャクソンが好きだと手紙に書いてあったからだ。私も洋楽が好きだったから、共通の話題があるのは助かる。

キッチリした性格なのか、手書きの行がすべてそろっていた。
写真も入っていた。家族写真なのか、兄弟と一緒に写っている。金髪がぼくです、と書いてあるから、その中で黄色い頭の人を探す。

マイケル君はメガネをかけて秀才っぽい感じの男の子だった。同い年にしたらなんだか大人っぽく見えた。

私も返事を書いた。英語の成績は良いほうだったけど、中学3年生の私にとって英作文は難しく、ペラペラの航空便の便せんは何度も消しゴムで消してクシャクシャになるし、かなり時間がかかってしまった。

海外へ手紙を送る場合、あて先や自分の住所・名前は封筒の所定の位置に描く必要があったので「英文手紙の書き方」という本を図書館で借りてきて、見比べながら何とか書き上げた。

写真も同封して送ることにした。父がしょっちゅう写真を撮っていたから、比較的最近のものから1枚選ぶことにした。

私の父は写真を撮るときに必ず全身と背景を入れるので、どの写真も顔が5ミリくらいの大きさにしか写っていない。それが非常に都合よかった。あまりはっきりと顔が写っている写真は、恥ずかしくて送りたくなかったからだ。

1989~90年頃 文通が自然消滅

マイケル君は真面目で親切だった。のんびりと半年に1往復くらいのペースだったが、私が手紙を送ると必ず返事をくれた。

彼と私は音楽という共通の趣味があったせいか、結構長く文通が続いた。よく考えたら、生まれて初めての外国人の友達だった。高校時代の私は洋楽にのめりこんでいたので、お気に入りのアーティストの新曲が出ると紹介し合ったり、コンサートの感想を送り合ったりした。

英語の成績アップにこの文通がそれほど貢献したわけではないのだが、簡単な単語と簡単な文を並べるだけでもコミュニケーションが楽しめるというのは、当時の私にとってはけっこう画期的な経験だった。

いちども会ったことがないのに、マイケル君も私もそれなりに楽しんでいたのだと思う。外国に住む友達と母国語以外で交流する、という経験がお互い新鮮だったのだろう。

1989年、ベルリンの壁が崩壊し、その翌年に東西ドイツが統一された。

マイケル君は引っ越したのか、環境が大きく変わったのか、その頃から手紙が届かなくなった。私もそのころ慢性疾患にかかり、入退院を繰り返したりして、手紙どころではなくなってしまった。

文通は自然消滅になった。

その後ほぼ30年、マイケル君と私が連絡を取り合うことはなかった。

2019年 Facebookで再びつながる


2019年、新型コロナのパンデミックの直前、私は当時勤務していた会社を辞め、ひとり暮らしのマンションを引き上げて実家に戻ってきた。

父は既に亡く、母も介護が必要な年齢にさしかかり、私も人生の仕切り直しの時期だった。

引っ越しの荷物を片付けていたら、懐かしい赤と青ふち取りの航空便の封筒を見つけた。マイケル君が最後にくれた手紙が実家にまだ残っていたのだった。消印は1988年になっていた。

今はどうしているのかな?と思いながら、Facebookで名前を探してみると、ドイツに同い年でマイケル君と同姓同名の男性が3人ほど見つかった。

50歳を過ぎてお互い白髪まじりの中年になっているし、顔も昔の写真からはずいぶん変わってしまっているので、どの人がマイケル君かわからない。

ダメもとでその3人にメッセージを送ってみた。
「こんにちは。昔日本の女子学生と文通していたことはありませんか?もしYesなら返事をください。Noならご放念ください。」

数か月なんの音沙汰もないので、「やはりだめだったか・・」と思ってあきらめていたある日、そのうちの1人からメッセージが届いた。

「やあ久しぶり。よく見つけたね。ぼくは今もドイツに住んでるよ。日本にも仕事で行ったことがあるよ。」

懐かしくて嬉しくて、インターネットという文明の利器に心から感謝した。

ペラペラの航空便の便せんがFacebookのメッセージに変わったけれど、またのんびりペースの交流が始まった。


2023年 ベルリン アレクサンダープラッツで会う


2023年の夏、ミュンヘンの語学学校に1か月短期留学した。2020年からドイツ語を学び始めたのと、昔から一度留学をしてみたかったので、思い切ってチャレンジすることにしたのだった。

短期留学終了後は、さらに1か月の休みを取ってドイツ国内を旅行する計画を立てた。ドイツ語で簡単な日常会話ができるようになった今、ドイツ国内に住む友人たちを訪ねたかったし、そもそもドイツ語を学ぶきっかけになったのも、ドイツ人の友人が増えたからだ。

もちろんマイケル君にも会ってみたかったので、連絡をとってみた。

マイケル君はドイツ北部のリューネブルクという町に住んでいるので、私の旅程を伝えて、その近くのどこかで会えないか聞いてみたが、ちょうどその日は出張で町にいないという。

やっぱり無理だったかな、と思ってあきらめかかっていたら、マイケル君が
ベルリンに来ることはできるか?」と聞いてくる。
確認したら、マイケル君の出張の数日前、1週間ほどベルリンに滞在する予定になっていた。

私がベルリンにいる間にわざわざリューネブルクから出てきてくれるという。急行列車で片道2時間、日本だと大阪と広島くらいの距離なのに。
やっぱり真面目で親切なマイケル君は変わっていなかった。

1988年の最後の手紙から数えて35年、ついに直接会えることになり、感謝感謝でその日を迎えることになった。

待ち合わせ場所のテレビ塔

待ち合わせはベルリンのアレクサンダープラッツ駅のテレビ塔。
私もベルリンは初めてで土地勘がないし、わかりやすくて間違わない場所ということでそこに決まった。

お互い見分けがつかないので、目印としてマイケル君は黄色いTシャツ、私は青と白のチェックのジャケットを着ていくことにした。

そして待ち合わせ当日。

待ち合わせ時間の少し早めにアレクサンダープラッツ駅に到着した。駅前の本屋で少し時間をつぶし、読めもしないドイツ語の本を買ったりする。結構緊張する。

テレビ塔の前で待っていると、「到着しました」とメッセージ。
黄色のTシャツを着た白髪交じりの男性発見。たぶんあれがマイケル君だ。

向こうも何となく気づいた様子。
お互いに苦笑いしながら挨拶をかわし、近くのカフェで軽く食事をすることにした。
「そういえば、ぼくたちは初対面だったよね」
「そうだよね。初めまして(笑)」

マイケル君は、食事をしながら今までの人生のこと、ドイツ統一から何があったかを話してくれた。私もいろいろあったけど、彼もなかなかの激動の人生を歩んできたようだ。今は北ドイツでトライアスロンのジムを経営していると言っていた。道理で中年太りとは縁がなく、Tシャツをスッキリ着こなしていると思った。

懐かしい話もたくさんした。食事の後はDDR博物館を見たり、シュプレー川の観覧船に乗ったり、駅まで散歩したり、近所のショッピングモールをぶらぶらしたりして、一日中おしゃべりを楽しみ、年齢も忘れて大笑いして過ごした。35年のブランクが一気に縮まったような気がした。
(この記事のトップ写真が、食事をしたカフェ前からの景色。)

ちなみにマイケル君とのおしゃべりはほぼ全部ドイツ語。2020年から学び始めたドイツ語はまだ全然流暢とはいえないが、ベルリンに来る前にミュンヘンの語学学校で1カ月しっかり練習した成果が生かされたことも嬉しかった。

英語学習の一環、ということで始まった文通で、彼も私も今や英語の日常会話に困ることはないのだが、私がドイツ語の勉強を始めたと伝えたので、練習できるようにドイツ語で話してくれたのだと思う。私のつたないドイツ語もさえぎらずに聞いてくれ、相変わらず親切だった。

言語を学ぶということは、本当に人生を豊かにしてくれる。英語の先生が「海外のお友達と文通しよう!」と言って勧めて来た企画が、何十年も経ってこんなに楽しい経験になるなんて、当時は想像もしなかった。

その日の夕方、マイケル君をベルリン中央駅で見送ったとき、彼は帰りの電車に乗る前にニヤッと笑って「また”手紙”を書くよ」と言っていた。

ネットですぐに連絡がとれる時代、またのんびりと手書きの手紙を送るのも面白いかもしれない。もちろんあのペラペラの便せんと赤と青の縁取りの封筒で、今度はドイツ語で書いてみようと思う。

ベルリン中央駅。マイケル君はここから急行列車に乗って帰っていった。

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