車輪の再発明。
いま、アニメ『チ。ー地球の運動についてー』を見ている。いい。原作がおもしろいという評判はなんとなく耳に入っていたが、にしてもいい。
それで考えるのである。
車輪の再発明の話を。
世の中には、同じような庭を何度も何度も作り直す人がいる。庭のデザインは無数にあるのに、なぜか彼らは「発見だ! この石の置き方こそが一番美しい!」と何度も言い張る。
まるで、すでに完成された車輪をバラして組み立てて「これだ!」と感動しているかのようだ。いわば車輪の再発明。
車輪の再発明はエンジニア界などで最もバカにされる愚行の一種とされる。時間の徒労だと。
が、少し待ってほしい。
車輪の再発明、まま、庭作りの再挑戦にも実は深い意味があるのではないか?
たとえば歴史的な発見は、突然におとずれない。
歴史上、庭作りも車輪の発明も、一人の庭師が突然「これだ!」と閃いて完成したわけではない。たとえば『チ。』のようにコペルニクスが天動説をひっくり返した地動説も、彼一人の頭の中からポンと出てきたわけでもない。古代ギリシャの天文学者は、夜空を眺めながらその基礎を何世代にもわたって整え続けていた。
ニュートンの微積分の発明もまた、彼自身が一人で発明したものではなく、同時期にライプニッツも似たような数学的な庭を耕していた。
歴史的な大発見というのは、無数の試行錯誤が土壌となり、その上に咲いた花ですよね。
同じように、現代における「庭作りの再発明」も無意味ではない。何度も庭を耕し、石を並べ、花を植えるその行為は、未来の庭師たちにとって貴重な知見となり得る。
誰かがやってきて「ああ、この庭の配置は確かに良いが、もう少しこうしたらさらに美しい花が咲くのではないか」と改良していく。そうして、庭は代々の知恵が受け継がれながら発展していく。
失敗と再発明は未来への道しるべだとして。
庭作りに失敗することは、無駄ではない。エジソンが何千回も失敗しながら電球を作ったのと同じように、庭師も石の置き方を間違えることで、何が美しくないのかを学ぶ。つまり、失敗することは庭のデザインにおける一つの道筋を否定する作業であり、答えに近づくためのプロセスだといえる。
現代に私たちがなんの気なく耕している庭、つまり日記やエッセイ、小説に脚本、ひらたくいえば「文章」は、未来の誰かにとっては大切な参考書になる可能性がある。
枕草子や徒然草がそうであったように、私たちの「庭作りの過程」もまた、未来の庭師たちが新しいデザインを考える手助けになるかもしれん。
よって私も庭を再発明しているだけかもしれない。
自分で庭を作りながら、「あれ、これってもう誰かが作ったデザインじゃないか?」と思うことがある。
過去の庭師たちが試みた石の配置や花の並べ方に無意識にならってしまうことはよくある。だからと言ってそれが無駄だとは思わない。
無駄が私自身の発見であり、未完成の庭がいつか未来の庭師たちに引き継がれる日が来る。クサすぎるが。
だからこそ、たとえ車輪を再発明しているように見えても、それは小さな発見の一歩だ。過去の知識が不足していても、いま自分が思いついた庭のデザインは、未来に何かしらの価値を残す。庭作りもまた、永遠に続く未完のプロセス。
結局、庭作りも車輪の再発明も、同じようなものである。何度も繰り返されるその過程が、未来に向けて新しい発見の種をまいているのだ。だから、再発明された庭に咲く花を見てにっこりしてみる。
誰かがその石を再び動かし、さらに美しい庭を作ってくれるかもしれないから。
なんか、読解力がすこしだけ必要な、国語的なクソみたいな文章になっちゃったな。
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