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季節の果物が置いてある家のおしゃれさ。

それぞれの季節ごとにどんな食材が旬を迎えるのか、ということを、私は把握していない。

りんご、ぶどう、いちご、梨、その他もろもろ。近所の八百屋さんにフルーツが並んでいても、そのラインナップと季節を関連づけて考えることはまずない。


ちょっと思い出してみると、おばあちゃんの家にはいつも、季節の果物がテーブルに置いてあった。


昭和世代の人たち、と一括りにはできないが、でも、私のおばあちゃん世代の人たちの家にはいつも、季節ごとの果物が置いてあった気がする。


ここで思うのは、季節ごとの果物がストックしてある家、というのは素敵だな、ということである。なんだかおしゃれだ。


季節を楽しんでいる気がするのだ。


いちごがあれば、4つの季節のどれかを感じ、りんごがあればまた季節を感じ、梨があればまた別の季節。ぶどうはいつなんだ? バナナは?


20代で一人暮らしを始めてからというもの、毎日を生きることに必死で、とりあえず白米を食べ、お味噌汁を飲み、冬になれば温めたお茶を飲んで体をほてらしてきた。ポテチがお菓子棚に並んでいて、妻はチョコレートを食べる。

果物の出番はそれほど多くない気がする。

果物を体に摂取するとき、例えばゼリーの中に入っているりんごのひとかけらを食べるのみだったり、ケーキの中に入っているいちごを食べるのみ。


たとえばりんごを丸ごとひとつ買って食べるとき、まずやらねばならないのは、皮を剥くという行為だ。ぶどうなら食べ終わったあとの皮を捨てるという行為があり、いちごならヘタをとって食べてまた捨てる、という行為がある。

これ、私からすると手間以外の何ものでもない。


つまり、季節の果物をわざわざ買って、その手間を惜しまず食べる、という行為には「わざわざ少しの手間をかける」ということが必ずセットになる。

ファストフード、ファストファッション、コスパ、タイパを考えて、できるだけ手間をかけずに生活するのが現代人であるから、これは正直、生活の道理に反する。

面倒、だからこそ果物を食べる、という行為にはその手間を手間と思わない、ある意味での「生活の余裕」や「生活を楽しむ」という心意気がその背後に見え隠れする。


つまりは、余裕がある、
ということに他ならない。


ただ、おばあちゃん世代の家にはなぜ果物があったのかを考えると、これはおそらく余裕があったから、ということではない。

単に彼ら彼女らの世代が送ってきた生活スタイルに起因するものだとは思うのだ。食べ物を食べる、という行為には手間がかかっていた、ということだね。


便利な世の中になって、スタイルが変化すると、価値観が1周する。リンゴがまるまる1個テーブルに置いてあったり、みかんが茶色のカゴに入って積まれていたり、バナナの房が仏壇に置いてあったり。

これはおばあちゃん世代からすれば、いたって普通のことなのかもしれないが、20代、30代の私たちはこれを「おしゃれだ」と感じる。


手間を手間だと思ってない様子に余裕を感じ、その人の人生に対する価値観みたいなものが見えてくるのである。


てなわけで、
今夜も私は梨を3つ買って帰ることにする。


皮を剥いて、梨を塩水にひたしてあげよう。

それで、シャリシャリと食べるのだ。

そういうお年寄りに、私はなりたい。


<あとがき>
ひとり暮らしをしているとき、少なくとも私は果物を買う余裕なんてありませんでした。果物がある家ってのがおしゃれだなぁと思うようになったのは一体いつのころからでしょう。おばあちゃん世代と書きましたが、もちろん40代、50代の世代でも「いや、普通に果物はあるけど?」という方もいらっしゃるでしょう。それって、素敵なことだと思いますよ。今日も最後までありがとうございました。

【関連】果物とクリエイティブの親和性について

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