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ほんとうに出会った者に別れはこない。

巨星墜つ。谷川俊太郎が亡くなった。

彼の傑作詩『あなたはそこに』を引用し、個人的に思うことを書いてみよう。

おそらく今日、この詩が目についたものの、ちゃんと読んでいない人が大多数であろうから、帰りの道やベッドの中でもいいので、とにかく静かに、噛み締めるように読んでみてほしい。

いかようにも解釈できる2人の男女の話である。


あなたはそこに(谷川俊太郎)


あなたはそこにいた 
退屈そうに右手に煙草 左手に白ワインのグラス
部屋には三百人もの人がいたというのに
地球には五十億もの人がいるというのに
そこにあなたがいた ただひとり
その日その瞬間 私の目の前に

あなたの名前を知り あなたの仕事を知り
やがてふろふき大根が好きなことを知り
二次方程式が解けないことを知り
私はあなたに恋し あなたはそれを笑い飛ばし
いっしょにカラオケを歌いにいき
そうして私たちは友達になった

あなたは私に愚痴をこぼしてくれた
私の自慢話を聞いてくれた 日々は過ぎ
あなたは私の娘の誕生日にオルゴールを送ってくれ
私はあなたの夫のキープしたウィスキーを飲み
私の妻はいつもあなたにやきもちをやき
私たちは友達だった

ほんとうに出会った者に別れはこない
あなたはまだそこにいる
目をみはり私をみつめ 繰り返し私に語りかける
あなたとの思い出が私を生かす
早すぎたあなたの死すら私を生かす
初めてあなたを見た日からこんなに時が過ぎた今も

(了)



さて、谷川俊太郎の詩の美しさは、言うまでもなく彼の言葉が目の前で呼吸しているように感じられること。単語がただの単語ではなく、だれかの部屋の中に浮かぶ煙のような、ふわりと漂い、静かに沈むようなおだやかな浮遊感。

言葉は記憶の中で生き続ける。そして詩人自身もまた、こうやってこの世を去った後も生き続ける。今日のようにね。


「ほんとうに出会った者に別れはこない」
というフレーズは一見、慰めの言葉のように響く。けれどもこれは単なる感傷ではない。むしろこの言葉は鋭い問いを突きつけてくる。


「ほんとうに出会う」とは一体どういうことなのか、と。


多くの人にとって出会いとは、偶然の積み重ねである。駅で誰かと肩をぶつけるような、無数の確率の中で起きる出来事。だが、谷川俊太郎が言う「ほんとうに出会う」とは、それを超えて、偶然が必然に変わる瞬間のことを指しているように思える。

目の前に現れた人が自分の人生の軌道を一度でも、なんらかの意味でも変えたならば、それはすでに「ほんとうの出会い」である。相手が生きていようが死んでいようが、その影響はもはや消えない。

だれかとほんとうに出会うとは、その人の存在が自分の中に染み込むことだ。

記憶を越えて、考え方、価値観、あるいは日常の些細な癖にまで、その人の欠片が宿ること。そう考えると「別れはこない」というのは比喩ではなく、むしろ文字通りの真実だといえる。出会った相手が自分の一部になった以上、彼らと別れることなどできるはずがない。

『あなたはそこに』が語る「別れのない出会い」は、単に死者への思いにとどまらない。むしろそれは、生きている者同士の関係にも言えることだ。

たとえば、親しい友人との間にある沈黙の時間。それは別離ではない。むしろ、言葉を交わさなくても、そこに在り続けるつながりそのもの。谷川俊太郎がこの詩の中で描いた「出会い」の真髄とは、時間や距離、あるいは死さえも超えた、純粋な存在の交換なのである。


彼が今この詩を読んだら、きっと「そんな大げさに言わなくてもいい」と笑うでしょう。彼の死を悼みつつ、彼の詩が私たちの中にまだ生きていることを思うとき、こうして私たちは彼と別れないままでいられる。

冥福を祈るという行為すら、どこか形式的で彼には似合わない気がする。ただ静かに彼の詩を読み返し、その余白にある彼の息遣いを感じ取る。それが、ほんとうに彼と別れない方法なのでしょう。


だれかにとっての私もそういう存在でありたいな、と静かに思うのである。


<あとがき>
二十億光年の孤独とかスヌーピーの翻訳とか『スイミー』の文章だとか、谷川俊太郎の影響力というのはそれはもう凄まじいもので、ひらがなを使った平易な文章は谷川俊太郎から糸井重里あたりへ受け継がれ、それがさまざまな文筆家へと波紋のように広がっているわけで。無くなってわかる物事のすごみみたいなものを思うわけです。今日も最後までありがとうございました。

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