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誰でも書けるからこそ厄介。

書くことは誰にでもできるからこそ厄介だ。

掃除、洗濯、食べ物を食す。この行為を「すごいね」と褒めてくれる人はだれもいない。なぜなら誰でもできるからだ。こんなこと誰でもできんねん。

たとえば、赤ちゃんが二足歩行をするまでには約1年、言葉を話すまでには1年以上もかかる。反復と失敗を経てようやくできるようになるのに、なぜかこと「文章を書く」ということはクソを漏らすようにカンタンなことに思える。反復などは不要で、自分の気持ちを文字にするだけで、それを公開するだけ。そしたらまるで人とはちがう才能があるかのように感じてしまうわけ。

この感覚、厄介だわぁ。反復が大事なのに。

日本の文学界でも、多くの作家が一発屋ではなく、長い時間をかけて研鑽を積んできたことは周知の事実。太宰治なんて、芥川賞を手に入れたくてしょうがなかった。太宰の中には、賞の重みや意味を理解しつつ、名声を求める焦燥感があったのだろう。あいつ、審査員の川端康成に手紙まで送って懇願してんやで。一方で石川啄木もまた、詩人としての地位を確立するために奮闘したが、当時の文学界では彼の作品がどれほど評価されたのかは疑問の余地あり。

んなこたないか。


こうした背景から、書くことは「誰でもできる」ことなのに、それを世間に気軽に公開できるようになったからこそ、私たちは自分の能力を過信してしまう。「自分は才能があるんじゃないか?」と思い上がるこの気持ちは、まるでペンギンが空を飛ぼうと試みているようなものだ。見た目は可愛いが、現実は無理難題。

歴史を振り返るとニュートンは「あたくしは巨人の肩の上に立っているのでござんす」と言った。これは先人たちの努力の上に自分の考えを築く重要性を示している。それに対し、現代の私たちは「肩の上に立っている」と思い込むあまり、足元を見失ってしまう。要は、先人たちの研究や努力があってこそ、今の自分がいるのに、その恩恵を忘れがちなのだ。

こうして毎日文章を書いているカスな私。いつも進歩が感じられないと嘆いている。つい最近も、書いたエッセイに「お前、またこのパターンかよ。お約束でもしてんのか?」と自分で突っ込む始末。結局、何かを成し遂げることは簡単ではない。努力や反復が伴わないまま、安易に「できる」と思ってしまうのが一番の厄介事だ。ほんとに厄介きわまりない。

というわけで、誰でも書けるからこそ、文章は本当に厄介。

自分の才能を過信せず、日々の反復を大切にして、真の成長を目指したいものだ。次に赤ちゃんが言葉を覚えるころには、私ももう少しマシな文章を書けているといいな、なんて思っている。


<あとがき>
このエッセイは「誰でも書ける」ことの裏に潜む厄介さを思うがままに描いていますが、やや自己反省が弱いです。そこがまた私の悪いところでもあり、どうしようもなく愛くるしいとこでもあります。また、赤ちゃんの成長と文章作成の比較はユニークを気取っていますが、もう少し具体例を加えて深みを持たせる工夫が求められるなぁ。今日も最後までありがとうございました。

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