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スキ数と閲覧数に踊らされる人。

セミナーをやると、参加者のうちで最も成長するのは誰だろうか。どんな人だろうか。それはもちろん……。


ありがたいことに先週と昨日、札幌市主催で「note」についての市民講座をやった。

今日はそこで思ったことをとりとめもなく書く。



参加者さんの数は定員30名を急遽こえる32名で本当にありがたい。心から感謝しているんです。2年くらい前の自分では絶対に想像もできない状況。

ぶっちゃけ、ずっとそんな空想をしてきたんだけど、それが現実の光景になるかというと、ムリだろうな、と思っていたわけ(思ってない)。


少し脱線すると、物事を実現させるためには具体的なイメージが必要だよね、ということで。この講座が満員になることだとか、結婚するときだとか、仕事のことだとか、すべては具体的なイメージが大事だと信じている。

どれだけ荒唐無稽なイメージであったとしても、まずは空想することが大事だと思う。


話を戻す。


それで思ったのは、note記事のスキの数だとか閲覧数だとかXの表示回数だとかの「数字」のことで。


正直、いまでこそ30人の前で話しても100人の前で話しても緊張しなくなった。これは場数に由来しているのが大きいと思うのだけど、とにかく100人単位の人が私ただ1人の話を聞くために集まったとしても、もう緊張しない。場数の力。


もちろんむかしは緊張した。


これについて思うことやノウハウはあるのだけど、この記事で言いたいこととは違うので割愛。



思ったのは「これだけの人が私の主張を聞いてくれるのだな」ということで。

先週と昨日、札幌市主催のnote講座で話したとき、私の目の前に広がるのは32名様が整然と並ぶ光景だった。

少し想像していただきたい。32名というと、ちょうど小学校のひとクラスと同じ規模だ。机が並び、生徒全員がずらっとこちらを見ている。しかも、生徒さんは子どもではない。全員大人だ。

私が講座をさせていただいたのは、札幌市のコミュニティ施設「ちえりあ」のとある大きな会議室だったのだが、その光景は荘厳ですらあった。しかもお金を払ってわざわざ。


32名の視線が私に集まる。私だけが受講者側を向いて話す。120分1人で話し続けなければならない。繰り返すが32名だ。机の並びを想像してほしい。一人一人が机に座り、手元にノートを広げて何かを学ぼうとしている。

部屋は奥まで伸び、32名全員の顔を把握することは至難のワザ。とにかく「ズラッと」いらっしゃるわけだ。

ありがとう。


こんなに多くの人が……。

そして同時に思うのである。


noteやXの表示回数、スキ数も同じことだよな。


普段の私たちはWeb上にいるからわからないけれど、たとえnoteの記事の閲覧数が一桁であっても二桁であっても、あるいはXの表示回数が一桁でも二桁でも三桁でも、はたまた四桁五桁でも、たしかに見てくれている人はいる。


他人との比較に生きる私たちは「あぁ、表示回数24かぁ、全然ダメだぁ」と思ってしまう。万単位の表示回数をコンスタントに記録している人の存在を知っているから。


32名の方々が目の前にズララっと並んでいる光景を見たとき、私が思ったのは「すげぇ数だ」ということで、その次に思ったのは「これだけの人がいるのだから恥ずかしくない話をしなければ」であり「いや、なんとかして笑かしたろ」であり「いやいや、マジでありがとうございます」であった。


過去にスタエフやら何やらで偉そうにも「noteの続け方」について以下のように話したことがある。

「あなたの記事はだれも読んでいない」という意識を持つ必要がある。


これ、本当にそうだろうか? と思うのだ。


このSNS社会、どんなに少なくとも1人、2人、ないしは二桁の人に投稿が表示される。細かく見てくれるかどうかは置いといて、見てくれる人はいるわけだ。


あぁ、そうかと思い至る。


数ばかりを見て、人を見ていないのではないか。


あなたの記事はだれも読んでいない、とよく言うけれど、それはただの「理論」にすぎなくて、たしかに読んでくれる人は存在する。


実際に目の前で講義をすると、うんうんとうなずく方もいれば、小さく笑ってくれる方もいれば、声を出して笑ってくれる方もいる。うれしい。メモをとり、何か学びはないかとモニターを凝視してくれる。

講義がおわって「ではこれでおしまいです」と言うと、どこからともなく湧いた拍手は全体に大きく広がって、私はとてもうれしかった。


同じことだ。

このインターネットの空間だと顔は見えないけれど、もしかするとその画面の向こう、読み手は同じような反応をしてくれているかもしれない。



noteを始めて2年が経とうとしているが、当初の気持ちを思い出す。読んでくれた誰かの胸に何かを灯すような、そういう文章が書きたい。

今でこそ私は適当なことばかりを書いているように見えるかもしれないけれど。

でもこのnoteを始めた最初から今に至るまで、ずっと底にあるのは、読んでくださったどなたかの心に「ぽっ」としたあかりを灯すような、気づきをともなうような、読んで良かったと思えるような、そういう文章が書きたい、ということで。


……

……いいや、それはウソ。


私は「文章」で勝負がしたいんだ。

いつも私は「noteは趣味なんです」と言って逃げるけど、本当の私はいつも思ってる。

自分の文章がどこまで広がるのか、それをこの荒野で試したい。どこまで共感を得られるか、単純に勝負がしたい。


そう、勝負がしたいんだ。誰と比較しているわけでもないが、負けてないと思いたいんだった。noteを始めた理由は単純明快。私はここにいるよ、と知ってほしかった。ただそれだけ。


そういうことを思い出させてくれる講義。



あらためて書くのは恥ずかしいけれど、いつも読んでくださる方には頭があがらないし、パッとこの記事が表示されて読んでくれた方にも頭があがらない。


私の記事もあなたの記事も、必ず誰かが読んでくれている。インターネット上ではリアクションはないかもしれないけれど、時にうなずき、時に笑い、時に涙を流し。そういう読み手がたしかにいることを忘れてはならない。


まだまだ修行をしなければ。


セミナーをやると、参加者のうちで最も成長するのは誰だろうか。それはもちろん……。

それはもちろん「講師」だ。生徒ではない。

間違いなく講師だ。

いい時間を札幌市さんからもらった。



講座に参加してくださったみなさん、どうもありがとうございました。そしていつもこのnoteをご覧くださる方々、本当にいつもありがとうございます。

そして札幌市さん、そして担当のスダさん、いつもありがとうございます。本当にありがとうございます。心よりの感謝を申し上げます。


〈あとがき〉
マーケティングの世界ではありがちなのですが、数字を見て分析して次の打ち手を考えがちです。ところがその大きな数字というのは小さな個の集合体で、その小さな個には幾通りもの人生があるわけです。書く側読んでもらう側として、全てに想いを馳せることは不可能ですが、通底する感謝の念を忘れてはおしまいだと思っています。今日も最後までありがとうございました。

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