映画「天使にラブ・ソングを2」を見たことがある人だけがニヤつく7つのポイント。
『天使にラブソングを』といったら映画だ。特に第2作となる『天使にラブソングを2』に関してはもう金曜ロードショーでこすりにこすられまくってる映画だろう。
この映画はこすられすぎて摩耗しているように見えるけれども、逆にダイヤモンドのきらめきのように、磨かれれば磨かれるほど光り輝く系の映画であると思う。
『天使にラブソングを2』という映画をご覧になったことがない食わず嫌いな方のために、ざっくりあらすじを解説すると、
これが全てである。
見たことがない方からすれば「そんな映画の何がおもろいんだ」とつっこんでしまいそうなものなんだけど、見たことがある人からすると「いやマジでそれ」と首が折れるほどに頷くことになると思う。
で、今日の記事はどちらかというと、この『天使にラブソングを2』をご覧になったことが「ある」という方に向けた記事にしたい。要するに「あの映画、めっちゃよくね?」な記事だ。
見たことがない方を置いてけぼりにするけれど、たとえ見たことがなくたって、この記事を読み終わるころには、下部にあるYouTubeの動画だけでも見てやるか、と思えることを保証する。
てなわけで、この映画のどこがいいのかを、全部で7つ書いてみよう。
よーし! れっつジョイフル!
[1]ウーピー・ゴールドバーグという名前
まず、主人公を演じた女優の名前が、ウーピー・ゴールドバーグであるという点。一度聞くと忘れられない。
この地球上でも最高金賞レベルのネーミングである。
日本人からすればウーピーの時点で「え?」となるのに、ゴールドバーグと続く。「ウーピー」という親しみやすさに日本人に馴染みの深い「ゴールド」と続いて「バーグ」で締める。
この女優の名前を口にしたことがある人ならば、確実に「ウーパールーパー」を連想してしまうような、そういうキャッチーな名前だ。
[2]原題の意味がいい
それからこの映画、邦題だと『天使にラブソングを』というタイトルで、これだけ見ると「え? ファンタジー映画ですか?」となるのだが、いざ内容を見ると全然ちがう。ファンタジーの「ファ」の字もない。
この映画の原題は『Sister Act』であり、直訳すれば『姉妹デュオ』に限りなく近い。Sister=姉妹、Act=演目、みたいになり、意訳すれば姉妹デュオ。
が、この映画で登場するのは修道女であり、なるほど、Sisterってのは姉妹ではなく「修道女」なのね、と気づける。修道女が演目を歌うのね、ほうほう。
と、思ったら、
実はこのタイトルにはさらなる仕掛けがある。
映画を見ていると、ウーピー・ゴールドバーグ演じる主人公は、とある事情があって修道女のフリをするのである。つまり修道女のフリ、演じているわけだ。
英単語のActの意味には「演じる」とか「ふるまう」という意味もあるから、そうか「修道女のフリ」と「修道女の演目」っていう意味の掛け言葉なのね、と気づけるわけだ。
[3]歌うますぎ問題
なんといってもこれだと思う。この映画には現実世界でのちにグラミー賞を受賞しちゃうようなヤツも出演していて、さらにはその人だけでなくあらゆる音楽審査員もびっくりの超絶技巧をもった若者たちが登場する。
クライマックスのコンクールの場面では、全ての悩みをぶっぱなして、やりたいことやっちゃおうぜ!(ウララ)みたいな具合で歌いまくる。
この映画は映画作りの王道に従った綺麗な三幕構成なのだが、終盤の歌唱シーンのカタルシスに向かうまでは、ググっと身が縮こまるようなストレスの連続である。それだけにクライマックスシーンは「炸裂」という単語が最もふさわしい。ハジけ祭りだ。
クライマックス楽曲『Joyful,Joyful』はエゲツなくて、讃美歌とラップといった黒人音楽をミックスさせた見事な構成。
身体が思わず音楽の聖地的などこかにワープしたのではないかと間違うほどのすばらしさである。おそらくあのシーンを見た人聴いた人は、少なくとも7秒は思考が停止することになる。
[4]あいつの声が高すぎて草
生徒の1人にどうも自信なさげな男の子がいる。ウーピー・ゴールドバーグに励まされ「おれ、出来るかも?」という気持ちになった彼は、劇中の中間、ちょうど三幕構成の真ん中あたりで披露される『Oh Happy Day』のシーンで、マライア・キャリーもびっくりの高音を披露する。
どれくらいの高音かというと、おそらく彼の前に薄張りのガラスコップを置いたらパリンと割れるほどの高音である。
このシーンには裏話がある。
映画スタッフが彼の歌声を聴き「え? キミもしかしてめちゃ高音が出るんじゃね?」ということで他の出演者には内緒でボイストレーニングを重ねた。
あのシーンはリハーサル映像と本番映像の2本を重ねて編集されたものであり、劇中では彼の高音に全員がビックリする姿が描かれる。
これ、出演者にも秘密だったわけで、その驚く様子はガチのリアクションである、という裏話があるのだ。
[5]人種に配慮したキャスティング
この映画で注目すべきは人種への配慮である。黒人女性が主人公であるというだけで公開年の1993年頃の時代背景を感じられるのだが、白人と黒人は言わずもがな、アジア系もめちゃくちゃ出てくる。
どのシーンを見ても、白人・黒人・アジア人が登場し、かつ最後の『Joyful,Joyful』のラップシーンでは、白人の男の子と黒人の男の子がラップバトルを展開する。人種の壁を超えたコラボレーションだ。
[6]キリスト教徒もいいかも、と思える
この映画のクライマックスで披露されるのは先述の『Joyful,Joyful』なのだが、これを見終わるころには、どんな日本人でも「え? なんかキリスト教って、よくね?」と思ってしまう不思議な魔力がある。ザビエルよりも布教力がありそうだ。
神を讃える讃美歌なのに、その歌詞で歌われているのは「マジで神はダチ」とか「俺の人生では神がNo.1」とか「神のことは小さいころから知ってんだわ」とか「G-O-D! あんたしかいねんだわ!」である。やけに神との距離が近い。
この映画の舞台はマジでどうしようもないヤンキー高校なのだけど『Joyful,Joyful』から感じるなんとも言えない神LOVE精神には思わずニヤリとする。
歌詞についてさらにいえば、繰り返しだがこの映画の舞台はどうしようもないヤンキー高校。なのにその歌詞の中に、
という一節が出てくる。
ヤンキーなのに神への奉仕精神は持ってるんだなぁと思えるわけだ。しまいには「神は全部お見通し、だから私たちは歌っとる〜!」と楽しそうに歌う。
[7]人間のマクゴナガル先生
この映画シリーズには、かのハリーポッターの良心こと、マクゴナガル先生を演じた女優が登場する。
女優としての彼女の名前はマギー・スミスというのだが、完全にマクゴナガル先生にしかみえない。この映画の公開は1993年。マギー・スミスはすでに完全体のマクゴナガル先生になっている。
舞台である高校は聖フランシス高校というのだが、最後の『Joyful,Joyful』が披露されたあとに満面の笑みで「聖フランシス高校に100万点!」と言うのではないかと思われたが、当然言わない。
[おわりに]これを妻に話すと
さて、つまりこの映画、疲れたときに見ると元気をくれるようなそういう種類のやつだ。多様性の本質を感じさせてくれるし、よき指導者に巡り合うことの大切さも教えてくれる。
多様性といえば、私たち日本人は日本人という人種の中で生きているが、世界を見渡せば肌の色も文化も全くちがう人たちが一緒くたになっている国が多くある。
1993年時点で、そこに対するある種の問題提起、本当の多様性みたいなものを投げかけている。抑圧からの解放、自由への意志、神が見てくれているという世界の宗教観。と書くと社会派なポリコレな匂いがするが、批評的な精神を捨ててこの映画を見ると、なによりエンタメとして楽しい。
たとえ全編を見なくともクライマックスの『Joyful,Joyful』だけでもよくて、先日どうしようようもなく疲れた私はこの動画をYouTubeで何度も再生しながら仕事をした。
と、いう話を妻にしてみたわけ。
「あのさ、最近仕事中ずっとJoyful,Joyful聴いてんだよね」
「そうそう、あれ聴いたら元気出るんだよな」
「え?」
妻はぜんぜん共感してくれなかった(泣)。
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