お花の話
先日スイートピーを買った。
ピンクと紫と白の3本。
すぐ枯れてしまう花を、わざわざ自分のために持ち帰り数日間楽しむ、という刹那的な感じがなんだか申し訳なくて、切り花を自分に買うことが苦手だった。それなら鉢植えで買ってきて、育てた方がよっぽどよかった。
既に半分殺されている状態で並ぶお花を見て、かわいいなあ、いいなあ、と見惚れつつ、どうしても自分が連れて帰るかどうかは悩んでしまう。
茎に巻き付けられたアルミホイル、ティッシュを外して、少し傷んだ足をカットし、水に活け直す作業が、なんとなく手術みたいに思えるからかもしれない。今助けてあげるからね、という処置みたいに思える。
そしてそこから長生きはしない。人間に摘まれなければもっと次の代までずっと生きられたかもしれないのに。
刹那的なものが苦手なのかもしれない。いずれいなくなるものとか、いずれ失われるものが怖い。自分だっていつかいなくなる生き物のくせに。
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お花をもらうととてもうれしい。なんでだろう、かわいい、という気持ちでいっぱいになる。かわいい、という気持ちは、かわいい、愛おしい、以外に言い換えが思い浮かばない。kawaii。
お花は生きている。人の気持ちもよくわかっている。人より空気が読める。そんなところも好きだ。
人が亡くなった時、突然花が咲いたりすることがある。今まで長年咲かなかった花が一気に咲いたり、植えてもいないはずの花がなぜか咲いたりする。本当に不思議だと思う。
植物は、人間が弱っている時、なんの前触れもなく空気を読んだりする。励ますように咲くその色の鮮やかさに泣いてしまったこともある。いつだってお花は助けてくれた。私が辛い時、そっと静かに咲いてくれた。
だけどお花が綺麗に咲いたからといって、死んだ人間が生き返るわけではないし、終わった恋が蘇るわけでもない。終わったものは終わりだ。花も咲いたら枯れるんだ。でもまたそのうち咲くけれど。
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で、先日スイートピーを買ったのだ。
考え過ぎだと思った。
自分のために、一時的な喜びのために。
朝起きた時に、お花と目が合うあのなんとも言えないしあわせな気持ち。あっ、いたんだ、そうだ、この子がいたんだ、という喜び。あんなに満たされた気持ちになるのだから、この瞬間的なしあわせのためだけでも、命をもらってもいいのかもしれないと、最近は思う。
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愛だ、と思っていた人との関係が終わった時、これは愛じゃなくて恋だったんだ、ととても悲しかった。
極端な考え方だと思う、永遠のもの以外は愛じゃないと思っていた。刹那的だったり一時的な愛とか、そんなものは存在しないと思っていた。愛は永遠でしかないと本気で思っていた。
でも多分愛ってもっとやわらかくて柔軟で瞬間的なものでもいいのかもしれないと最近は思う。目に見えるものじゃないし。それぞれでいい。あれはあれで愛だったよね、くらい適当に思える頃には、気も楽になっていた。
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春が近付くと、近所のお花屋さんに毎年スイートピーが並ぶ。それがあまりにかわいくて、でも今までどうしても買うことができなかった。何度も何度も店の前をうろうろするも結局買えず、あきらめて帰る、というのを5,6年繰り返していた。
今年こそは自分にお花を買ってあげる!と決めたのが昨年の春、やっと勇気を出して買うことができた。
ピンクと紫の2本。たった2本。それでもうれしくてうれしくて、泣きそうなくらいにうれしくて、大事に抱えて帰った。とてもドキドキした。こんなことでこんなにドキドキできたのか、と自分でも驚いた。大切にしていたら、信じられないくらい長く咲き続けてくれた。
お花はうちに来ると、お花屋さんにいた時より明らかに元気になる。生き生きとして、色まで鮮やかになって、パアッとこっちを向く。なんてかわいいんだろう。なんて生きてるんだろう。
私にとって、スイートピーは手が伸ばしやすくちょうどいい。ささやかで、可憐で、小さくて、美しいのに嫌味がなくて、変な主張や派手さもない。
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かわいすぎて自分に買えない花がたくさんある。なんだかもったいなくて。犬を飼いたいけど、かわいすぎて死ぬのが怖い、という感覚に近い。お花は儚いから。
今年は勇気を出して、ラナンキュラスや、バラ、芍薬を買ってみたい。
あまりに美しいから、家に連れて帰ってきたら泣いてしまいそうで、ちょっと勇気がいるけれど、出会ったタイミングでこんにちは、と連れて帰りたい。
そしてそこから数日間の、短いしあわせを楽しみたい。
ああ、終わらなければいいのにな、お花が枯れなければいいのにな、本当にそう思うけれど、いやいや何事もいつかはすべて終わる、みんないつかはいなくなるんだよ、とわかった上での今日を最高にするために。
この春は昨年より、お花を飾って過ごしたいなあと思う。たくさんしあわせでいるために。