ロジェ・カイヨワ 「遊びと人間」
「遊び」について分析した書籍があったので面白そうだと思い、読んだ。
おそらく、ゲームや玩具、ワークショップをつくる等の「遊び」に関わることをしている人にとっては一読しておいた方が良い内容だと思った。
特に参考になりそうだと思った遊びの分類を中心にポイントをまとめてみた。
遊びの定義
遊びには次の6つの定義がある。
1.自由な活動
遊ぶ人がそれを強制されれば、たちまち遊びは魅力的で楽しい気晴らしという性格を失ってしまう。
2.分離した活動
あらかじめ定められた厳密な時間及び空間の範囲内に限定されている。
3.不確定の活動
発明の必要範囲内で、どうしても、ある程度の自由が遊ぶ人のイニシャティブに委ねられるから、あらかじめ成り行きがわかっていたり、結果が得られたりすることはない。
4.非生産的な活動
財貨も、富も、いかなる種類の新しい要素も、作り出さない。そして、遊ぶ人々のサークルの内部での所有権の移動を別にすれば、ゲーム開始の時と同じ状況に帰着する。
5.ルールのある活動
通常の法律を停止し、その代わりに、それだけが通用する新しい法律を一時的に立てる約束に従う。
6.虚構的活動
現実生活と対立する第二の現実、あるいは、全くの非現実という特有の意識を伴う。
遊びの分類
a.基本的カテゴリー
あらゆる遊びは主に4種類の基本的なカテゴリに分類することができる。
競争 アゴーン/Agone
サッカーやチェスやビー玉をして遊ぶ。
競争とは、勝者の勝利が性格で文句のない価値を持ち得るような理想的条件の下で競争者たちが争えるように、平等のチャンスが人為的に設定された闘争。
必ず一つの資質(スピード、耐久力、強さ、記憶力、技、器用など)だけを対象とする敵対関係であり、はっきりとした境界の内部で、外からの如何なる援助もなしに行われ、そのため、勝者は、その一定の種類の競技では最高のものとして現れる。
筋肉的性格のアゴーン(スポーツ競技)、頭脳的性格のアゴーン(チェス)がある。
その分野において自分が優れていることを認めさせようという願望が遊びの原動力。
偶然 アレア/Alea
ルーレットや宝籤(宝くじ)で遊ぶ。
アゴーンとは正反対に、遊ぶ人から独立の決定、遊ぶ人の力が全く及ばない決定を基礎とし、従って、相手に勝つことより、運に勝つことの方がずっと問題であるようなすべての遊びを示す。
ここでは、偶然の不公平を除去しようとはしない。それどころか、遊びの唯一の原動力になっているのは、かえって、この偶然の恣意性なのである。
アレアは運の良さをを示し、暴く。遊ぶ人は完全に受身であり、自らの資質、納涼、あるいは自己の伎倆(ぎりょう)、筋肉、知性といった手段を用いない。
サイコロ、ルーレット、バカラ、宝くじなど。
偶然の役割が大きくなるほど、従って、遊ぶ人の作戦の役割が小さくなるほど、金銭の役割は大きくなる。アレアの目的は、各人がチャンスの盲目的宣告の前で絶対的平等の立場に立つように、個人の先天的、後天的優越を無くしてしまうことだからである。
偶然の遊びは、優れて人間的な遊びであると思われる。
模擬 ミミクリー/Mimicry
海賊遊びをしたり、ネロやハムレットを真似て遊ぶ。
全て遊びというものは、幻想ではなくても、少なくとも、閉ざされた、約束事に基づく世界ーいくつかの点で虚構な世界ーの一時的需要を前提とする。架空の環境の中で、一つの活動を行ったり、一つの運命を甘受したりすることだけではなく、自分自身が幻想の中の登場人物となり、そうしたものとして行動することでもあり得る。
ミミクリーは、各人が、自分が自分ではない何者かである、と戯れに信じたり、自他に信じさせたりするという事実を共通の特徴とする多様な一系列の現象である。遊ぶ人は、自分の人格を一時的に忘れ、偽り、捨てて、別の人格を装う。
子供の行う大人の真似事。大人の使う道具や器具をかたどったミニチュアの玩具が売られる理由はここにある。母親ごっこ、アイロンごっこ、兵隊ごっこ、海賊やカウボーイの振りなどをすること。
仮面や仮装をつけて行う気晴らし、遊ぶほとが仮面や仮装をつけるという事実、および、その結果によって成り立つあらゆる気晴らしも含まれる。
芝居の上演や演技もこのグループに入れるべきである。
ミミクリーはただ一つの点を除いて遊びの特徴を全て備えている。(絶対的で明確なルールへの絶えざる服従という要素以外の、自由、協定、現実の停止、空間的時間的制約)
眩暈 イリンクス/Ilinx
回転や落下など急激な運動によって自分の中に混乱狼狽の有機的状態を作る遊びをする。
眩暈の追求を基礎とする遊びであり、一瞬だけ知覚の安定を崩し、明晰な意識に一種の心地よいパニックを引き起こそうとする試みを内容とする遊び。
現実を一挙に無化する一種の痙攣、トランス、麻痺状態に入ることを意味する。
一方のかかとを軸にして、できる限り速く回る「トトン」という遊び、滑り台、坂道を駆け下りること、ブランコ、回転木馬など。
色々な体の動かし方がこの感覚を引き起こす。空中ブランコ、墜落、飛び降り、急速な回転、滑走、スピード、直線運動の加速、および、それと回転運動との組み合わせなど。
b.騒ぎからルールへ
遊びが制度的な存在を獲得する時から、遊びとルールは不可分なものとなり、ルールは遊びの本性の一部分になる。
遊びを文化の豊かで決定的な道具に変えるものはルールである。しかしながら、遊びの源泉には依然として根本的自由(解放の欲求であり、気晴らしと気儘の欲求)がある。この自由こそ、遊びにとって不可欠の動因である。
4つの遊びのカテゴリーが、性質の変化に従って、同一の順序で積み重なっている。同時に、遊びを二つの反対の極(パイディアとルドゥス)の間に並べることもできる。
パイディアとルドゥスの二つが一対をなすことによって、文明推進の力を持つといっても過言ではないような、様々な遊びを生み出している。
パイディア
「子供らしさ」を意味するギリシャ語。気晴らし、熱狂、自由な即興、気ままな発散という共通要素だけが優勢を占める極。一種の無制限の気紛れが表現される部分。
即興と陽気という原初的能力。
遊戯本能の自発的表現を包括する言葉と定義する。
例)毛糸の球に絡まった猫、転げまわる犬、玩具を見て笑う乳児などは、この種の活動のそれとわかる最初の事例。とんぼ返りや殴り書き、乱闘や騒ぎなど、動き、色、音のこのような競争状態が申し分なく見られる事例。
この種の活動は直接的で無秩序な興奮として、衝動的で気ままで、ともすると羽目を外しがちな遊戯として表現される幸福の絶頂時に見られる。
ルドゥス
無秩序で気紛れな性質とは相補関係にある傾向ーいくつかの点でこれと反対の、しかし全ての点で反対とは言えない傾向。
すなわち、望む結果に至るのをますます難しくするため、この気紛れな性質を、絶対的、命令的で、故意に窮屈な約束に従わせ、この性質の前に絶えず障害物を置こうという欲求の増大である。望む結果を獲得するのに必要な努力、忍耐、技、あるいは起用は絶えず大きくなっていくが、結果が完全に無用であることは変わらない極。
遊びの中では最も強い文化的な意義と創造性とを持つ要素。パイディアに規律を与えることによって、遊びの基本的カテゴリーに、その純粋と優越とを与えることに全般的に役立っている。
遊びの理論の拡張
遊びを支配する基本的態度ー競争、運、模擬、眩暈ーは、単独で姿を表すとは限らない。
一つの態度は、他の三つのうちの一つと順番に組み合わせることができる。
競争=運
競争=模擬
競争=眩暈
運=模擬
運=眩暈
模擬=眩暈