vol.21「前だと思う方を向いて、がんばれ。」ステキ工房・みやちとーるさん
僕は元々は映画監督になりたかったんです。その一方で、頭の片隅には「地元に帰る」という選択肢もあって…
大学卒業後に様々なバイトをやった後、こう思ったんです。
映像はチームで仕事する。「地元に帰ろう」と思った時、チームも一緒に連れて帰れるか?それは難しいな…って。
写真だったら1人で出来るし、帰っても続けられる仕事だ。
そう思って、写真の道に方向転換しました。
「きほくる|紀北町魅力ナビ」にお越しいただき、ありがとうございます。
今回の「しごとカード」インタビューは
紀北町三浦(きほくちょう・みうら)にスタジオ「ステキ工房」を構える写真家・みやちとーるさん。
みやちさんは大阪の大学を出て、様々なアルバイトや写真スタジオのアシスタント等を経験。
28才の時に写真家として独立し、38才の時にUターンしました。
三浦育ちで良かったこと、東日本大震災の東北でのボランティア活動や写真を撮ることを通じて感じ得たこと等、なかなか聞けないエピソードを語っていただきました。
1.三浦育ち
ーーこれまでの経緯を教えて下さい。
みやちさん(以下、敬称略) 僕は、1975年に紀北町三浦(きほくちょう・みうら)で生まれました。
三浦小学校を卒業後、三船(みふね)中学校に行きました。
当時、三浦と道瀬(どうぜ)の子は旧紀伊長島町民でしたが、旧海山町・上里(かみざと)にある三船中に通っていたんです。
ーーそうなんですね!知らなかったです。
みやち 地元でも知らないことって、案外ありますよね。
自分が住む地域のことは分かるけど、同じ町でも他の地域の暮らし方はよく知らないとか…
それってもったいないし、自分の町のことを知るって大切だと僕は思っています。
ーー子どもの頃の思い出は?
みやち 僕は三船中学校に通えたことがとても良かったと思っています。
当時、僕は「海山町にある中学校に紀伊長島町民が混ぜてもらう」という感覚だったんですよね。
その感じがすごく良かった。
ーー異文化交流みたいな?
みやち そうです。
まず、言葉が全然違うんですよ。
長島の言葉は「ぐっちん、しょうらい!ぐっちん!」みたいに勢いがある。(「ジャンケン、しようよ!ジャンケン!」の意)
ところが、船津や上里は男子でも言葉が優しいんです。
「〇〇やんねぇ(〇〇だよね、の意)」とか言って、ゆっくりで柔らかい。
初めて聞いたときは本当にビックリしましたが、自分の地域を出たからこそ知れたことだと思うんです。
ーー確かに!
みやち 他には、少数派側を経験できたのも良かった。
隣の町に混ぜてもらっているという感覚でいると「多数派だから無意識に他を見下してしまう」みたいな感覚は生まれない。
それがよかったと思ってます。
僕は、三浦で生まれ育ったけど母親が長島の出身なので長島のことも分かる。三船中に通ったおかげで、船津や上里のことも分かる。
自分の地域だけじゃなく、周辺の地域を少しずつ知っていけたことがとても良かった。
そのことによって、僕の中の地域を見渡す視点が生まれたのだと思っています。
ーー中学校卒業後は?
みやち 尾鷲高校に行って、その後は大阪芸術大学の映像学科に進学しました。
ーー映像学科だったんですね。
みやち はい、僕は元々映画監督になりたかったんですよ。
ーーそれがどうして写真家に?
みやち 僕は進学を機に大阪に住んだけれど、頭の片隅に「地元に帰るかも」という考えはずっとあったんです。
ーーそうなんですね!
みやち 大学卒業後にラジオ局で働いたりいろいろなバイトをやった後、こう思ったんです。
映像はチームで仕事する。「地元に帰ろう」と思った時、チームも一緒に連れて帰れるか?それは難しいな…って。
写真家なら一人で活動できるし、地元に帰ったとしても仕事を続けられる。
そう思って、写真の道に入りました。
2.フジロックに行きたかったから。
ーー写真をやろうと思ったのは何才の時ですか?
みやち 24才です。写真スタジオのアシスタントから始めて、29才になる年(2004年)に独立しました。
ーー独立するきっかけは?
みやち そもそも独立するつもりで修行として就職していたので「5年間修業したし…」みたいな感覚がありました。
あとは、フジロックに行きたかったから(笑)
ーー紀北町にUターンしたのはいつですか?
みやち 独立した時は「5年経ったら帰ろう」と思っていたのですが、実際は予定から5年遅れで2014年、39才になる年に帰りました。
3.写真でやっていきたい。
ーーUターンが予定より遅れたのは何か理由が?
みやち 簡単にいうと、踏ん切りがつきませんでした。
クライアントがいる関西を離れても仕事を継続してもらえるのか、地元に帰ってやっていけるのかなどの不安がありました。
ーーUターンを決めたきっかけは?
みやち 東日本大震災です。
震災のとき、僕は大阪に住んでいましたが、志願してボランティアとして東北に行ったんです。
ーー被災地に?
みやち はい、みえ災害ボランティア支援センターの第三次先遣(せんけん)隊として2011年4月半ばから2週間ほど、岩手県山田町でボランティアとして活動させてもらいました。
※先遣隊とは、本体に先んじて派遣される部隊のこと。
ーー震災後まもなく、ですね。
みやち はい、居ても立ってもいられなかったんです。
僕が大学生の時に阪神淡路大震災がありました。友だちが被災したけど、当時は僕は学生でお金がなくて、何かしたいと思っても何もできなかった。
そんな過去があったので、東日本大震災が起きた時はすぐに行動しました。
ーー被災地ではどんなことが?
みやち ことの始まりは震災前でした。僕は岩手県釜石市出身の映画監督の作品に記録係(スチール)として関わっていました。
監督のお母さんはお菓子作りが好きで、クッキーを焼いて撮影現場に送ってくれていたんです。
現場のスタッフはお酒が好きな人ばかり。僕はお酒が飲めず甘いものが好き。
僕だけがお母さんのクッキーをパクパク食べていました。
ーー嬉しい差し入れですね!
みやち はい。映像完成後におこなわれた上映会には監督のご両親も来場されて、僕が写真を撮らせてもらいました。
その時もお母さんは僕のためにケーキを焼いてきてくれたんですよ。
ーーステキ!
みやち そんな関わりがあった監督のご家族も震災で被災しました。
家は流され、お父さんは津波で亡くなりました。
全てが流されて遺影に使う写真もない状態だったので、上映会の時に僕が撮った写真を遺影として使ってもらうことになりました。
ーーそんなことがあったんですね…
みやち その後もあるんです。僕が山田町のボランティアセンターにいる時、監督のお母さんと弟さんが釜石市から僕を尋ねてきてくれました。
その時、少しお話をして写真を撮らせてもらいました。お話してから撮ったからかな、2人がふわっと軽く笑ってくれたんです。
大阪に戻ってからその写真を監督に見せたとき、こう言ってくれました。
「被災してから弟の笑った顔は見たことなかった。写真の中だけでも笑っている弟とお母さんを見ることができて良かった。」
それを聞いたとき、写真でやっていきたいと思ったんです。
ーーその後は?
みやち 被災地で見聞きしたことから、僕の人生観や暮らしに対する考えが変わりました。
ーー具体的には?
みやち 被災した方から「被災直後は貯金がどれだけあっても引き出すところがない。現金を持っていても買うところがない。」
「お金がなんの役にも立たないという経験をした。」という話を聞いたんです。
それを聞いて、僕は「徳」を貯めることが大事だと思いました。
僕になにかあった時、「とーるちゃん、大丈夫かな?」と気にかけてくれて、いざという時には駆けつけてくれるような人間関係を築いていくことが重要だと。
ーー私も東日本大震災の時、ひとのつながりが大事だと感じました。
みやち 僕はつながりのほかに、なんでもお金で解決しようとする経済的豊かさを追い求める暮らし方を見直す必要があるとも感じたんです。
ひとはもっと人間らしい暮らしをした方がいいんじゃないかって。
そして、Uターンすることを決めました。
4.つながれる場所
ーーUターンしてからは?
みやち 僕が小さかった頃は、地域のつながりが今よりもっとあったんですよね。
祭りや地域の活動がたくさんあって、その中で子どもも大人も関わり、地域のつながりが作れた。
それが今は祭りも地域活動も減って、地域にどんな人が住んでいるのか分からない。
特に若い人の動向が分からない(笑)
ーー同感です。
みやち 僕は、改めて、地域につながりが生まれる場所が必要だと思って、スタジオは撮影以外にも使えるような造りにしました。
スタジオを構えてカメラマンの仕事のほかに、ステキマルシェをやったり、2021年秋からは不定期ですがカフェ営業も始めました。
●過去のステキマルシェの案内↓
ゆくゆくはゲストハウスやコワーキングスペースも作りたいと考えています。
地域内のつながりだけじゃなくて、地域と外をつなぐ場所もあるといいですよね。
5.仕事がすべてじゃない。
ーー仕事で大切にしていることは?
みやち 僕は「写真家」ですが、写真作家としての自分と、職業写真家としての自分がいます。
写真作家として大切にしていることは、撮り続けること。
職業写真家としては、クライアントの声をきいてクライアントの望む写真を撮ることです。
ーーあなたにとって、仕事とは?
みやち 僕は、仕事は暮らしの一部だと思っています。
仕事が全てではなく、暮らしの中に仕事があるという位置づけ。
これは紀北町に帰ってきてからすごく感じていることです。
みやち 僕は、まずライフスタイルを決めてから仕事を選ぶのもアリなんじゃないかと思っています。
まず「どんな暮らしがしたいのか」を軸にする。次に、その暮らしが出来るように仕事を配置していくイメージかな。
ーーなるほど。
みやち 僕の場合は
写真作家として作品を撮り続けたい。ここが好きで、ここで暮らす恵みを味わっていきたい。
それらを維持できるように、職業写真家として働いて収入を得る。
その他には、地域のつながりや都市部とのつながりをつくりたいからカフェもやる。季節ごとの仕事もあるから、それもやる。(梅の収穫や海の家の手伝い等)
そこでもつながりが出来るし、更に新たなつながりを生み出すことも考えています。
自給自足的な暮らしがしたいという思いがあるから、できる範囲で畑仕事もしたいと思っています。
ーーいろんな思いがあって、仕事をアレンジしているんですね。
みやち 僕は1つの仕事で生計を立てようとしなくてもいいという考えです。
幾つかの仕事を組み合わせて収入を得ながら、自分が好きな場所で好きな暮らしをしていく。
そういうスタイルって、これからの働き方・暮らし方の1つだと思うんですよね。
ーー紀北町に帰ってきて良かったですか?
みやち はい。
さっき言ったような暮らしが出来るのが、この町の魅力でもあると思います。都会では味わえないですよね。
若い人たちも帰ってきたらいいのになぁと思っています。一緒にいろいろやっていけたら嬉しいから帰ってきてほしいです。
ーー地元での子育ては?
みやち 僕は、結婚する前からこう思っていたんです。
自分の子がどんな子どもに育ってもいいけれど、自然の循環の中の一部として存在していると感覚的にわかっている子になってほしい、と。
ーーそれって大事だと思います。
みやち 僕は、自分は自然の循環の中の一部だという感覚は皆もっていると思っていたんですよ。
それが、大阪に出て「違うんだ」と気が付きました。都会で生まれ育った多くの人はその感覚を持っていないと感じました。
だから、都会の子育てでその感覚を子どもの中に育てていくのはとても難しいと思っていました。
ーーそうかもしれません。
みやち それが、ここなら、子どもを放っておいても勝手に身に付いていく。
毎日の暮らしの中で「自分は自然の循環の中の一部だ」という感覚が育っていく。
それはすごく良いことだなと思っています。
ーー二十歳のころの自分に声をかけてあげるなら?
みやち 二十歳のころかぁ…
僕は映画監督を目指していたんですよね。「映画監督は、はよ諦めよ(早く諦めな、の意)」と言うべきか…どうかなぁ(笑)
「前だと思う方を向いて、がんばれ」かな。
ーー前だと思う方を?
みやち はい。人生は紆余曲折します。
でも、その時に前だと思う方を向いてがんばるということをやっていたら、人生はなんとか開けていくと思っています。
だから、二十歳の頃の自分にもそう言ってあげたい。
ーー最後に、若い世代の人たちにメッセージをどうぞ。
みやち 帰ってきてー!待っとるよー!
若いひとがこの町に帰ってきてくれるのを、僕らは待っとるよ。
ーー若い人たち、帰ってきてねー!みやちさん、今日は貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回の写真家・みやちとーるさんのお話はいかがでしたか?
あなたの中にある仕事に対する思いや大切にしていることを感じるきっかけになったら嬉しいです。
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