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「罰が当たる」

こんにちは、ぱんだごろごろです。
今日は、『罰が当たる』について。

子供の頃、何かいけないことをすると、親御さんから、
『そんなことをすると、罰が当たるわよ』
と言われた経験のある方は、かなり多いのではないかと思います。

ばちが当たる』とは、具体的にどういう状況になるのかはさておき、何かまずいことが起こる、自分にとって、圧倒的に不利なことが起こりそうだということは想像がつくので、やり始めていた悪行をその場でやめてしまった思い出のある人もいるのではないでしょうか。

「お天道様てんとうさまが見ているよ」
なども同じで、子供の道徳教育のために、親たちが使っていたように思います。

動物を虐めたり、よそ様のものを勝手に盗ってきたりしてはいけない、ということを、子供たちにわからせるための言葉ですよね。

因果応報、
自分がした悪い行いは、必ず自分に返って来る。

ところが、つい最近、この『罰が当たる』の範囲って、どれくらいなんだろうと考えてしまう出来事に遭遇したのです。

つまりですね、残酷なことはしてはいけない、虫を踏み潰したり、羽根をむしったりですね。
そんなことをしてはいけない、というのは、誰でもわかります。
でも、もし、わからない子供がいたら。

『罰が当たるよ』
と言われても、平気で続けるのではないでしょうか。

何故なら、
自分のしている行為が悪いことだと認識できなかったら、良心は痛まないから。

結果、その子供には、
『罰は当たらない』
のではないか、と思ったのです。

職場で、いつも休憩時間を大幅に超えて取る人がいます。
通常、昼休みは1時間と決められているのに、帰って来るのは、いつも1時間15分後、1時間半後になるのもざらです。

帰って来ても、悪びれた様子もなく、ケロッとしています。
一度上司から注意されたことがあったようですが、戻る途中で他の部署の人から呼び止められて、業務連絡を受けていました、などと堂々と言い訳をしていたそうです。

そんなことで三十分もかかる訳ないだろう、というような言い訳ですが(要するに、知り合いに会って、おしゃべりに夢中になっていた、ということです)。

一方で、休憩時間を5分オーバーしただけで、良心の咎めを感じて、
『こんなことをしていたら、時間にルーズな人だと思われるだけでなく、会社に損をさせていることになるわ。いつか罰が当たってしまう』
と思う人もいるでしょう。

そういう人に比べて、先の人は、休憩から帰って来るのに、15分くらいの遅れは誤差の範囲だくらいに思っていて、悪いことだとは毛頭思っていないとします。

そうすると、その人は、自分が悪いことをしているという認識がありませんから、当然良心の咎めも感じません。
よって、自分に『罰が当たる』とは、思い付くことすらないでしょう。

そもそも、『罰が当たる』とは、子供に自分が悪いことをしていると認識させ、行動を改めさせるための言葉です。

ルール違反をしながら、大したことはないと思っている人の行動を改めさせる力はないのです。

5分遅れても、『罰が当たる』のではないかと思う人と、
15分遅れても、どうということはないと思う人。

この二人のうち、本当に
『罰が当たる』
のは、どちらなのでしょう。

自分の行動に無自覚な人は、『罰が当たる』の範疇には含まれないのではないか。

案外、時間にルーズなくらいの人の方が、『罰が当たる』などとくよくよしたりせず、生き易い人生を送るのかもしれない。

いったいどちらが幸せなのか。

『罰』は『当たる』のか、『当たらない』のか。


色々と考えているうちに、ふと祖母の声が聞こえたような気がしました。



ああ、そうか、そういうことか。

どちらも私の姿なんだ。

ちょっとの気のゆるみで、人は、いくらでも道を踏み外す。

5分遅れても、『罰が当たる』のではないかと思う人と、
15分遅れても、どうということはないと思う人。

今は前者だとしても、自分に傲りが出てくれば、あっという間に後者になってしまう。

『罰が当たる』の範囲は、自分が決めれば良い。

そう、
祖母が、(あの世で)知り合いに自慢できる孫でいること。


これが私にとって、
『罰の当たることのない』
生き方です。


今日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。


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ぱんだごろごろ
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