白魚
春の季語『白魚』は踊り食いできない。
なぜなら白魚は水揚げするとまたたく間に死んで白くなってしまうからだ。
つまりあの踊り食いされている気の毒なシロウオは白魚とは別の魚なのである。
今日の季語は『白魚』と決めて早速踊り食いの話を書き終えたあとになって、私はそのことを知ってしまった。しかし今から書き直すのは大変なので、仕方ないから今日はシロウオの話をすることにしよう。
ただしシロウオの漁も春に行われるのだから春の風物であることに違いはない。
シロウオは海の浅瀬に住むハゼ科の小魚で、産卵のため河口に集まってきたものを川底に吊るした四角い網で一網打尽にする。細長い体は大人になっても5センチほどにしかならず、透明の身に目玉や浮き袋などが黒く透けて見えている。春の季語であるキュウリウオ科の「白魚」と姿形もそっくりだが、よくよく見ればハゼらしくあごがしゃくれているのが分かる。
私がまだ幼かった頃、祖父が生け捕りにされたシロウオを買ってきてくれたことがある。
当時から珍味好きで名高かった私は、もちろんこの饗宴に大喜びしたのである。
シロウオたちは小さな茶碗に入れられて私の前に差し出された。他の家族はこういうものは食べたがらないから、このかわいそうな小魚は私のためだけに用意されたのだ。思えばあとにも先にも、私が生きたままの何かを食べようとしたのはこの時だけだった。気の毒な生贄たちは不安気な目をしてゆらゆらと茶碗の中を泳いでいた。
生きた魚はもともと「うお」と読むものである。一方「さかな」とは元来酒のつまみを指す言葉なのだ。つまり生きたウオは死んで初めて食べ物のサカナになるのであり、私の前に差し出されたウオは食べ物ではなく生き物である。食べ物ではないものを私は食べることはできない。
何とかこの哀れなシロウオたちを救わなければと焦る私は動揺していた。一刻も早く彼らを逃がさねばならなかった。私は茶碗を持って駆け出すと、それを台所の流しの中へとぶちまけてしまった。驚いたシロウオたちは身をくねらせながら自ら排水口へと泳ぎ去っていった。
人の左右の肩には生まれた瞬間から倶生神という一組の神がのっている。倶生神たちは人の一生における全ての善悪の行いを記録に留め、命尽きてのち閻魔の大王に伝えるのである。きっと倶生神たちは漏らすことなく幼い日の私のこの悪事も報告するのだろう。
あの時私はシロウオたちを一飲みにしてしまったほうが小さな罪ですんだのか。それともやはり流しにぶちまけたほうが罪は小さかったのか。果たして閻魔大王はどのようにお考えになることだろう…。
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