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鵜飼

もし鵜の風貌を見て「彼は善人か悪人か」と尋ねられたとしたら、十人に十人が「悪人である」と答えるだろう。魔物のような黒い大きな体にぎょろっとした緑の目、先の曲がった長いくちばし、蛇のごとくうねる首…。
いかにも悪の風体という感じがするではないか。

わが家の近くの池の岸にもそんな悪魔の使者たちがものものしい集会を開いている。
しかしその恐ろしげな見た目に反して、彼らの集いは極めて平和で友好的である。互いに干渉し合うわけでもなく、ただ一緒にいたいから一緒にいるというような、実にほがらかな集いなのである。鵜たちがケンカをしているのも私は見た記憶がない。
彼らはただゆったりと過ぎる空の雲を眺めていたり、羽を伸ばして乾かしていたり、あるいは二、三羽が一緒になって楽しそうに泳いでいたりする。
鵜たちのことをじっと観察した後で今一度「鵜は善人か悪人か」と問うてみれば、十人に十人が「鵜は善人である」と答えるに違いない。

鵜といえば何と言っても長良川の鵜飼である。
涼やかな夏の宵闇にかがり火をともした小さな鵜舟がゆっくりと流れてゆく。
この何とも風流な季節の漁を見るために、平安の昔から多くの貴族たちが観覧に訪れたそうだ。

鵜は人によくなついて扱いやすく、逃げる時にノドにためた魚を吐き出して飛び立つ習性がある。鵜飼は鵜のこのような習性を利用した漁だというが、また同時に彼らをあつかう鵜匠たちの技の結晶でもある。
首結くびゆい」はその日の漁を左右する重要な技術の一つで、麻の繊維をよった肌触りのよい縄を素早く鵜の首のつけ根にくくりつける。大きな魚はそこで留まり、小さな魚はのどを通って鵜が食べる。このくくり加減が絶妙でなければならない。

一番の腕の見せどころは「手縄たなわさばき」と呼ばれる技だ。
鵜匠は多い時には十二本もの手縄を左手に握り、指先で動きを感じながら十二羽の鵜を巧みに操る。鵜が動けば次第に手縄はもつれ絡まる。鵜匠はからまった縄を素早く右手で引き抜き、左手に戻す。
かのチャールズ•チャップリンも長良川の鵜飼を観て「鵜匠はアーティストだ」と称賛し、「ワンダフル!」を連呼したという。

長良川には現在六人の鵜匠がいらっしゃるそうだ。
彼らにとって鵜たちは家族も同然である。
兄弟であり子どもであり、孫であり、また相棒でもある。鵜匠はつねに鵜のことを一番に思って行動する。共に生活し、漁を重ねて絆を育む。年老いて引退した鵜もそのまま鵜匠の家で暮らすのだそうだ。毎年鵜飼シーズンの終わる頃には、亡くなった鵜に感謝と弔いの意をこめて供養を施す。
長良川を泳ぐ鵜たちを繋ぎとめるのは手縄であって手縄ではない。鵜と鵜匠との間の信頼と愛情がつむぐ固い絆なのである。

しかしどうだろう。
せっかく捕まえた魚を喉もとでとめられ、吐き出さされて取られるなどということが、普通なら許せるだろうか。いくら大切に愛情をそそがれようとも、私だったら必ずお断りするに決まっている。
これは善人なる鵜だからこそ許せるのである。本当にワンダフルなのは、和を以て貴しとなす鵜たちのおおらかで寛大な心なのだ。
皆さんも鵜飼を観る機会があったなら、どうぞそのことを忘れないで頂きたい。


参考:URL: https://www.ukai-gifucity.jp/Ukai/

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