人が亡くなる知らせの意味
芸能界で活躍されている方が亡くなりました。
ついこの間も、未来のある若者が亡くなりました。
いつの時代も流れてしまう悲しいニュースとの付き合い方、どう生きるかについてとても考えさせられます。
そのニュースの実態ではないのです、何かを知りたいわけではない、こういったお知らせを目にして「人間の儚さ」を思い知る。
感染症、誹謗中傷、災害、全て今までの人の予想外な域から起こっている。
そうしていつも同じようなことが繰り返されるのは、人は簡単に死んでしまうということをあまりにもどこかに置き去りにしてしまうからだと、ふと感じる。
私は、大学生の頃に高校時代の一つ上の先輩をバイク事故で亡くしたのがとてつもなく衝撃だった。
亡くなった後も手付かずのままなSNSをぼーっと見て、でも、その時の私は何かを感じ取ることはできなかった。
祖父や祖母の死は、老衰というものあって悲しみながらも幼いなりに理解していた。
けれどそれは、あまりにも突然すぎて、そして本人の大好きなバイクという趣味が引き金になった事故という、複雑な心境だった。多くのものを求めない人だったけれど好きなものにはとことんのめり込んで、心の奥に秘めた力のある核を持っていた、そんな人だった。
人間の心は、想像より遥かに繊細だ。
その一言で、夜も眠れなくなって、怖くなって、外の景色を見る資格すら自分にはないような気がしてしまう。大きな波のように、緩やかにあるいは急激に駆け上るように、変容する。
人間の体は、想像より遥かに脆い。
金属の塊にぶつかってしまえばいとも簡単に潰れてしまうし、酸素がなければすぐに心臓が止まってしまう。悲しいことに、所詮、魂の入れ物は可燃物で、どんなに願っても虚しく灰と化する。
だから、死が遠い存在なんて思うべきではないと思う。
人類全員がみな100歳まで生きる世の中ではなくて、明日自分が、大切な人が、今日笑っている人が、明日も「普通に」生きている保証なんてないんだから。
悲しい時期に悲しいことを言って、勘弁してほしいと感じてしまうかもしれないけれど、こればっかりは無視していても仕方がないことで、申し訳ないけれど でもとても大切なこと。目を逸らしてはいけないことだと思っている。
〜さんが、亡くなりました。
〜名の方が、大勢亡くなりました。
残った人が、「私たちは、どう死と向き合い、どう理解していくか」
を、永久に問い続け、探究し続ける必然性を、感じるのです。
そして初めて「生きること」の偉大さ、価値、強烈なものを感じ、噛み締めていくことができるのです。