天河弁財天さんとホ・オポノポノ
昨年の年末のAkaneさんとのセッションの終わりに、
『弁財天さんと話して。神社には行っても行かなくてもいいから、とにかく、かしこまらずに、5歳の女の子が、おばあちゃんに話しかけるみたいに話して。』
と伝えてもらった。
その後すぐに、弁財天さんを調べて、
『ここ行ってみたい♡まさにハート♡』と思った神社があったけれど、車がないとムリやな…だの、遠いしな…だの、パートナーに着いてきてほしいけど、運転させるのはちゃうかな…だの、なんだかんだ行かない理由を探して諦めていた。
それがつい先日、パートナーから、
『きみえちゃん、なんか奈良の弁財天さん行きたいとか言うてなかった??そこ行こうや!なんかな、“弁財天さん弁財天さん"って言葉がずっと浮かんでくるねん。』
!!!なんと!!!これはもう!!!
わたしのパートナーはいつもなんだか【遣い】のようなことが本当によくある。
ピン!ときて行動したことが、
『ああまたこれ、ご先祖さまに動かされたな笑』みたいなことが多々ある。
頭で考え過ぎずに、子どもみたいに自分の直感や自分の欲望に素直な人だ。なので興味のないことの記憶はゼロで、知らない言葉も覚えられない。
だからわたしが数ヶ月前にチラッとだけ言った、『弁財天さん』という言葉は記憶にはなかったはず。
『これはもう会いに行こう!』となり、先日ついに、ずっと会いたかった弁財天さんに会いに行った。
荘厳で普通の空気ではない拝殿のその場はなぜか、ずっと可愛がってくれた大叔母を思い出した。
わたしがどんなでも、いつも同じように接してくれた。
怒られるし小言も言われるけど、わたしのことを愛してくれていた。
弁財天さんの前に立ち、『心のままに生きたいのに、なかなか難しくて今またちょっと苦しい。頭の声がずっとうるさくて。』と話すと、弁財天さんは『あんたは苦労性やなぁ』と笑って、わたしの頭を撫でてくれた。
そんなことは大したことじゃないと言われて、ホッとして涙がポロポロ出てきた。
包み込まれたその優しさには、まさにAkaneさんが伝えてくれたように"子どものようであれ"が含まれていた。
その後、神社の敷地内にある池の前に来た時に、ふわりとメッセージが降りてきた。
【頭の声(エゴ)を否定しなくていい。それも自分。心そのものも自分。どれも自分。全部許して全部抱きしめろ。】
胸の奥がふわ〜と温かくなった。
わたしは、心のままに生きたいと願うばかりに、頭の声を黙らそうと躍起になっていた。
それが正解とばかりに不正解を許せなかったのだ。
パートナーとふたり、会社を退職し、せっかく自由の身になったのに、頭の声がうるさくなって、いつまで経っても時間に追われているような、休むことに抵抗があるような日々を過ごしていたけれど、弁財天さんに会ってから、わたしはとても緩んだように思う。
"許せた"に近いかもしれない。
パートナーも、『顔優しなったなぁ』と言っている。
ちなみに彼は弁財天さんから帰ってきたら、
『あれ?あの神さまの名前なんやった??今日行った神社の。あれ?出てけえへんなんやった??』と真顔で本気で言うのだ。
あなたのおかげで、ここしばらく重苦しかった気持ちは晴れに晴れた。
ありがとう。
***
次の日の朝、目が覚めてすぐに瞑想をしたくなった。
ガッツリしてみようと8分間のタイマーをかけた。
最初はネドじゅんさんのエレベーター呼吸↓
しばらくして頭の声が静かになったところで、
この前、ツイートか何かで流れてきた『オ・ポノポノ』が浮かんできた。
ハワイの伝統的なものらしく、
『ありがとう・ごめんなさい・ゆるしてください・愛しています』を、自分に語りかけるというもの。
その言葉が浮かんで消えないので繰り返し心の中で唱えてみた。
なんだろうか、このフィットする感覚。
一生唱えてられるような感じなのだ。
あとで調べてみると、潜在意識のクリーニングで癒しの効果があるらしい。
すると次は体に意識が向き、チャクラを感じながら唱えていると、手を当てたくなったので、第1チャクラから順番に手を当てながら、その言葉を繰り返し唱えていたら、
第2チャクラ(子宮)の時、とても悲しく孤独なエネルギーが伝わってきた。そのままずっと手を当てたまま言葉を唱えていると、涙が出てきた。
わたしがわたし自身の女性性を否定しているのだとすぐに感じた。
(ごめんな。寂しかったよな。ごめんな。)と伝えた。
そして、次の第3チャクラ(お腹)に手を当てると驚くほど冷たかった。パジャマの上からなのにその冷たさが伝わってくる。
(あぁごめん。ずっと自分の中にあるものを蔑ろにしてきたんや。あぁごめん、ごめんよ。)
第4チャクラ(ハート)に手を当てたら、わたしは急に
(ここに帰ってきて!わたしの魂、ここに帰ってきて!)と叫びに近い感じでお願いをしていた。
そして、(ありがとう。ありがとう。)と伝えた。
第6チャクラ(眉間、松果体)に手を当てると光の輪が見えた。黄色い炎でできたような大きな輪が光っていた。
とても力強く感じた。
最後の第7チャクラ(頭頂)に手を当てるころには、なぜかエネルギーが満ちた感じがして、第6チャクラで見た光が頭頂から飛び出している感覚があった。
結局、8分のタイマーを4回繰り返し、30分以上していたことになるけど、あっと言う間だった。
信じられないくらいに体が温まっていて本当に不思議だった。
体の右側は男性性、左側は女性性と言うけれど、あぁそういうことかと合点がいった。
わたしの不調は全て左側なのだ。
酷く傷めた膝も、低血糖を起こした時の後頭部、目の奥、首、肩の辛い痛み全部、左側だけなのだ。
わたしが瞑想の時に感じた子宮の悲しさや孤独さは、わたしが女性性を否定し、意図的に何も感じないようにしていたからかも知れない。
パートナーに支えられ、女性であることを喜び、楽しんでいる自分ではダメなのだと、どこかで自分を責めていたからだ。
これからは稼がないと、社会的に活躍する自分にならなければいけないのだと強く思った2年前にちょうど膝を傷めた。
あぁ体はなんて正直で健気なのだろうと、感動する。
それを、(わたしの何が悪いの?この痛みはわたしに何を言いたいの?答えを教えて!)と、痛みのせいで動けないことに抵抗し、原因探しをしていた。
口では、世間的には、色んなことを学んでいる手前、聞こえが良いように、
『痛みは魂からのメッセージ。わたしに何を伝えてるんかな』みたいな発信をしていたが、いやいや違う。
わたしは本当は怒っていたのだ、自分自身に。
思うように動けないことがストレスでストレスで仕方なかった。
人に甘えるのも苦手で、周囲が心配して、優しくしてくれても、(もう放っといてくれ…)が本音だった。
なるほどなるほど。全部、辻褄が合う。
それと最近になってわたしは、自分の中にある"怒り"を何度となく感じるようになっていたのだが、
(でも…自分の中にあった怒りはもう全部吐き出したし、なんやろ、このふとよぎるこの感じなんやろ…)とよくわからなかった。
でもこの時の瞑想のおかげで、思うように動けない自分、言うことを聞かない自分に怒っていたのだと確信した。
でもその怒りをこの体に向けたらもっともっと痛みが増すだろう。
だからわたしは、自分を労っているふりをしていたのだ。
本当は怒っているのに。
その感情には目を向けず、労わることで痛みから解放されたかったのだ。
目を開けて、窓から差す光の中にいる自分を感じた時、その怒ってる自分も自分らしいなとクスッとしてしまった。
アホで単純で熱い自分が、わたしそのものなのだ。
それを綺麗にまとめようとしても無理だった。
【大暴れした後、良いお母さんになって、そのうち自分を見失って苦しんで、そして色んな気づきを得て、幸せになりましとさ♡】
みたいなストーリーを早く完結させようと急いでいたことに気づかされた。
それに、おこがましさ極まりないが、わたしに手を貸してくれた恩人たちや、応援してくれた友人や仲間に、こんなに元気なったよ!こんなに変わったよ!という自分を早く見せたい、喜んでもらたいという思いも強くあったのだ。
なんと失礼なことをと…反省した。
30分間の瞑想は、内面と向き合う良い機会になった。
今まで何度も瞑想はしていたけれど、無意識に向き合いたくないと抵抗している(変わりたくない)時は、ここには辿り着けなかった。
***
数日前に破壊と再生の星、冥王星の影響も受けた蠍座満月を迎え、水星の逆行も終わったせいなのか、勝手に諦めていた天河弁財天さんに会いに行けたり、今までで一番長い瞑想のおかげで、わたしは自分の直感を信じられるようになった。
本当はスピリチュアルが好きなのに抵抗があったが、これも手放せた。
何かが見えるわけではない。でも感じるのだ。
感じることが、わたしそのものなのだと思える。
惹かれるのに抵抗していたから、エネルギーが枯渇していることにも気づけた。
これはきっと宇宙からのプレゼントだった。
というか、いつもプレゼントに溢れている。
でも気づかずに苦しんだりもがいたりすることを楽しんでいるだけなのだ。
それもまた人間らしくて愛おしい。
それに人のことはよくわかる。
『ああすればいいよ。こうすれば楽になるよ。』
いくらでも出てくる。
そういう自分もおもしろいなと思うのだ。
***
スピリチュアルに興味はなくても、瞑想は本当におすすめだ。
目を瞑って呼吸を意識するだけでいい。
頭の声が聞こえるままでも良いし、考えたいなら考えればいい。
何も抵抗せずに、感じているままを感じていいと許す貴重な時間になるかもしれない。
全て内側にあるということがよくわかる。
要はとても楽になるのだ。
ここからしばらくは意図的に子どもに還ることにしよう。
意のままに動くのだ。なんだかワクワクしてきた。
さて明日は何をしようかな。