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価値の創造と誤解

現代は、「他人や社会の価値観に縛られず、自分の価値を創り出す」という思想が広まり一見すべてが自由で正解とされる時代になっている。しかし、その自由が生み出した現象の中には、明らかに質の低い文化や浅い価値観が目立つことがある。
(そもそもニーチェが提唱した奴隷の道徳、主の道徳から導かれた「価値を創り出す」という考え方は、単なる自己表現や自由の意思を指してる訳じゃなくそれが「力への意思」に基づくもので、自らの存在を高めるような価値創造を意味していると思う。ニーチェにとってこのプロセスは深い知性とか精神的な強さを伴うものだったと)
(おいどうした何で急にこんな事言い出したかというと最近見てた動画でやたら奴隷の道徳が出てきたからなんとなく現代にというか周りに置き換えてみたくなったのと、くだらない事書いてるからバランスとりたくなった)(興味ある人は奴隷の道徳調べてみてだいぶ逸れてるけど)

自由が生んだ質の低下

YouTubeをはじめ楽曲作り等の創作活動もそうだけど誰でも簡単にできるようになった。その恩恵を自分も受けてる。でもそこで目立つ多くのコンテンツは表面的で子供じみたものが中心。視覚的(見た目的)にも発言内容もダサさや浅さが目立ち質が低いと感じるものが大半だ。これは単に「自由だから何を作ってもいい」っていう状況が作り出した結果にすぎない。ニーチェが提唱した価値の創造は単なる自己表現ではなく、「自分自身を高める」深い創造性を伴う行為を指していたと思う。現代の多くの創作活動はその本質から大きく逸れているように見える。
現代のコンテンツの低質化の1つにマス文化の特性がある。大衆はシンプルで分かりやすく一時的に楽しめるものが支持される。アルゴリズムの影響で視聴数や再生回数が優先され、短期的な注目を集めるだけの浅い内容が増える。その結果、質よりも流行とか話題性が重視される風潮が生まれて、文化全体の水準が下がっているように感じる。

全部正解となった時代の「贖罪」

現代は「どんな価値観も認められる」という多様性の時代。でもそれによって、「何が正しいか」「何が質の高いものか」という基準が失われているように感じる。社会全体で何が良いものかを判断する力が弱まって(好きなものを好きと言えない人の多さよ、それに自信を持てず中味を語れない人の多さよ、というか本当に好きなもの探したことあるのかな)バズることや簡単に注目を集めることが優先され、深い創造性が評価されにくい。質の高い文化が淘汰されて、浅いコンテンツが幅を利かせている様は社会が支払っている贖罪といえるのか、どうだか。(でも本当に質の高い文化が淘汰される事はなく本質はもっと複雑で、浅いコンテンツと質の高い文化が共存してる時代とも言える)(ここでいう淘汰は完全になくなるという意味でなく、目立たなくなるとか一部の層だけに限られるという事←でもしようと思えば誰でもそこにアクセス出来る世界でいくらでも違う視点を持つ事ができる)


何が言いたいかというと(何も言いたいわけじゃないけど)、ニーチェの価値創造の本質に立ち返る必要があるということかな。単に自由に何かをする事ではなくて、自分が何を創りたいかそしてそれが社会や他者にどう影響するかを考える。大衆に受けることより自分自身が「これが真に価値がある」と信じられるものを追求する。理解され、支持される為には教育や批評の文化を育てる。
全部正解の世界で、現代の贖罪を乗り越えて、自分自身の創造性を高めていこーか(真面目すぎてあり得ないか)


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