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子どもが出てくる映画の話。その3 『世界の果ての通学路』

あるとき、家で仕事をしていると、遠くから男の子の歌声が聞こえてきた。何を歌っているのかわからない。それがだんだん近くなってきて・・もしやと思えば、ガレージ(うちはガレージから入る)を開く音が聞こえた。

・・うちの子かい!

自分の子の声もわからないのかというなかれ。住宅地のなかで響きわたるほど大声で歌いまくる声の主が、まさかわが子だとは思わなかったのだ。学校から家までほんの5分ていどだけど、彼にとっては誰もいないのっぱらを歩くような気分だったのだろう。

子どもにとって、最初のひとり旅は、もしかしたら家から学校、あるいはその逆の学校から家までの道のりではないだろうか。

地域によっては、集団登校という形で年長の子たちといっしょに学校にいくこともある。でも、帰りはひとりになる。もちろん近所の子や仲のいい友達といっしょに帰ることもある。でもよほどすぐ隣り同士ではないかぎり、とちゅうの角などで「じゃあ」といって別れ、それぞれの長かったり短かったりする道をひとりで歩くことになる。

今思えば、あれはとても貴重な小さな一人の時間だ。だから事件もおこりやすいので、しみじみとばかりはしていられないけれど。

そう。今回とりあげる映画に出てくる子たちも、しみじみとばかりはしていられない。なにしろ彼らは日々危険とたちむかい、これでもかという長い道のりをたどり学校へと向かうのだから。

『世界の果ての通学路』は、2012年制作のフランス人発。ケニア、モロッコ、パタゴニア、インドの4つの地域の子どもたちの通学風景を追いかけたドキュメンタリー。

映画は、男の子が土を手で掘るシーンからはじまる。

はてと思って観ていると、やがて土から水がわいてくる。その水を男の子は飲み、顔を洗い、毎日着る制服を洗う。ケニアの少年だ。少年は制服を干しながら誇らしげにいう。「貧しいからって、汚いことがいいわけないからね」少年は妹といっしょに学校にいく。その通学路はなんと片道15キロ。猛獣があちこちにいるサバンナをひたすらかけぬけるのだ。

あるいはモロッコの少女。ふだんは学校の寮にいるけれど、たしか週末には家に帰り、そこからまた寮にいくという。でもその家は、険しい山あいの村にあり、学校までは半日かかる。そこを女友達と歩き続けるわけだ。「(自分たちは違ったけれど)これからは女の子も勉強するべきだから」と少女を応援するその家のおばあさんの言葉になんだか胸がシンとした。

あるいはパタゴニアの少年。学校から離れているので馬で登校する。地平まで続く平原のなか少年(の馬)がとつぜん立ち止まり、遠い彼方を見つめる。なにかと思えば、はるか遠くから同じように馬に乗った友達がやってくる。まったく目印もなにもない場所で二人は待ち合わせていたのだ。妹をかわいがる寡黙な少年だった。映画パンフにのっていた監督の説明によると、まわりは映画にでることを勧めたが、彼は最初「勉強にさしさわりがあるから」とイヤがったという。そんなところも、なんとなく、いいな。白衣のようなアルゼンチンの制服を着る生徒たちの姿もちょっと新鮮。

そして最後がインドの海岸沿いの町に住む兄と弟たち。兄は身体が悪く車いすにのって登校する。それを二人の弟たちがまかせてとばかり学校まで車いすを押すのだけれど、この二人がおもしろくてたまらない! 一生懸命だけどちぐはぐで、そのせいかトラブル続出。おかげで兄は「いいかげんにしろ!」と怒ってばかり。将来について語るこの兄の言葉を聞くと、ほんとうに学びにひたむきで賢い子なのだとわかる。そしてやんちゃな弟たちは、そんな兄をむちゃくちゃ尊敬していて大好きでたまらないのだ。この兄弟が陽気に歌声響かせて、通学路をいくエンディングがとてもいい。

この映画で、世界を旅して、子どもたちといっしょに通学路を歩いた。

わたし自身は、けっしていい大人でも、いい旅人でも、いい親でもないので、きれいな言葉でしめるのはとても後ろめたいけれど、これだけはいっていいよね。

この映画の子どもたちが向かっているのは学校じゃない。

未来だ。











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