滅びのものがたり。エストニア発ファンタジー『蛇の言葉を話した男』
ーー森には、もう誰もいない。
物語はこの一文ではじまる。
語り手は、森に暮らし、蛇の言葉を話すことができる。その言葉で森の動物たちを意のままに操ることができるのだ。
と、ここまで読めば、お、どうやら広大な森を舞台とした神秘あふれるファンタジーに違いないと思う。
が、ページをめくるにつれ、予想は裏切られていく。もちろん、いい意味で。
少年をはじめ森の住人たちは、小屋に暮らし、狼を飼い、肉のみを調理して食べるという、野性味あふれた生活を送っている。
だがすぐそばに、教会がありパンを焼いて食べる「時代に即したふつうの生活」を送る村がある。いまや森の住人たちは、次々村へと移り、森は過疎化しつつあった。
その一人が、語り手である主人公の少年レーメットだ。
昔ながらの森での生活や伝承を怪しみながらも楽しんでいる。冒険のつもりで訪れた村での生活にも、素直に好奇心をもつ。
そのとき、ひとりの村の少女と出会った。
きた。これはきっとアノ展開になるだろう。
野生児のような少年と、かわいくてあかぬけた村の少女。ボーイミーツガール。彼らはともに助け合い……。
なんてことにはならない。似たようなことはあるにはあるが、かなり違った。
どうやら、過去に出会ったファンタジーを一切忘れてかかったほうがよさそうだ。これはたまらない。そこからはまっしぐらだ。
たしかに森は、神秘にあふれている。
翼をもつ蛇サラマンドルの伝説にあこがれる少年レーメット。厳しい修行をして蛇語を身につけ、蛇の親友ができる。同じ森に住む古い猿人とも親しくなるし、この森の熊は人語を語る。
でも、実際の森の生活は、実に生々しく人間くさい。古い森のしきたりを妄信する家族は病的で野蛮だし、奇妙な繰り言をいう老人はアル中である。人々には嫉妬や性欲もある。少子高齢化も問題だ。
そこでレーメットの父親は陽のあたる生活をしようと、一度は村での暮らしを試みる。ところが、妻の浮気相手である熊(!)に噛み殺されてしまうという、とんでもない悲劇がもとで一家は森に出戻ってきたわけで。
この物語には、現代的なリアルさと、メルヘンにも近い驚くべきことが、違和感なく同じ世界に共存している。おかげで読み手は、一瞬「え」と立ち止まるが、次第にそうなんだと慣れて、いや受け入れていく。そのときにはもう、この物語世界に入ってしまっている証拠だが。
この不均衡ともいえる世界観がすんなり受け入れられたのは、聡明で素直な少年レーメットの視点で語られているからだろう。
森での常識は彼にとっては当たり前。むしろ村の生活のほうが、異質で奇妙なことだった。だから、はじめて口にするパンは麻薬のごとく背徳的で、キリストという神様の話などピンとこない。かといって村の人が畏怖をこめて「森には精霊がいる」などというと、「いないのに」と首をかしげる。
森の住人は、必要以上に森を惧れたり慈しんだりしないのだ。
主人公レーメット。
彼はもともと、ごくふつうの子どもだった。特訓して蛇語を話せるようになったけれど、じつは決して正義の味方でも、超人でもない。ときには、うわと思うほど残虐な面も持ち合わせている。
そんな彼は、なにかと「最後の人間」といわれることにうんざりしている。
森の最後の子ども。家族で最後の男。蛇語を話す最後の人間。
どうしてぼくなんだ?
思わず声をあげてしまう彼のふつうさが、この物語独自の世界をニュートラルに見せてくれるのだ。
『蛇の言葉を話した男』の作者は、アンドルス・キィファラフク。1970年生まれ。エストニア人。
巻末の『フランス語版訳者による解説』によると、この物語はエストニアの歴史的・社会的な風刺が描かれているという。
申し訳なくも私は、エストニアの歴史もキリスト教のことを何も知らない。それでもこの物語世界を楽しむには、まったく問題はないだろう。
主人公は森を飛び出し、海へも、異国の地へも向かう。生贄にされかけた少女を救い、恋をし、愛する人たちを失い、力を得て戦いにあけくれる。
蛇語を話す彼を恐れるよりもカッコいいとばかりに心酔する村の少女。危機一髪のときに現れたじいちゃんに「こないかと思った」というセリフ。スピード感あふれる展開や、そこかしこのやりとりはどこか今風で、その都度にんまりしながら、ちょっと異質で濃厚な世界を少年とともに味わった。
やがて、森のなかで彼はひとり、とっておきの奇跡に出会う。
ずっと会いたかったものに。
これは、滅びの物語だ。
人も森も、滅び忘れられていく。あるいはこの世界すべてが。
それでも、たとえ語るものさえ潰えても、たしかに在り続けるものがあるのだろう。
そして、最初の彼の言葉に立ち戻る。
ーー森には、もう誰もいない。
★タイトル画像は「みんなのギャラリー」からお借りしました。Gracias.