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『葬送のフリーレン』と人生のくだらない生存戦略



すべての意味が自分に帰属する世界で

僕たちの社会は今、「目的」を喪失している。倒すべき巨悪もいなければ崇高な正義も存在しない。倫理もなければモラルもない、共通前提というものが完全に消失してしまった。だからどうすれば幸せになれるのか分からず、努力の仕方も分からない。普通という指針がなくなり、誰もが道に迷っている。

全ての行為の動機が個人に帰属してしまう世界。誰かのために、とか社会のために、とかいうことが許されず、全ては自分のためである世界。選択のひとつひとつが自己責任自己満足に収斂していく。これは自由であることの裏返しだが、しんどいものはしんどいし、寂しいものは寂しい。原理的に、今の社会は人が孤立するようにできている。

フリーレンは、そんな現代人を体現するような存在として描かれる。果てしなく長い寿命を生きる彼女にとって、孤独は決定されたものであり当たり前のものだ。フリーレンにとって社会の規範なんてないに等しく、生きる目的はすべて自分自身にゆだねられる。彼女は自由の極限を生きている。
 
だからこそ、この社会がぶっ壊れたあとの、人間にとって本質的に必要な「つながり」や生きるための原動力とはなんなのかを教えてくれる。


死者とのつながり

人との関わりを無意味なものとして避けてきたフリーレンは人間を知らない。しかし勇者一行とのたった十年の冒険を経て、彼女の中の何かは変わり始めていた。ヒンメルの死に直面したフリーレンは、彼のことを何も知らないことにようやく気づき、人を知ろうと決心する。

アイゼンの計らいによってヒンメルともう一度話すことを決めた彼女は、奇しくも、勇者一行との旅路をやり直すことになる。今度は弟子をつれて。そしてその道程で彼女はヒンメルたちとの冒険を回想し、彼らの思いを改めて知っていく。

そこでは死んだ仲間の思いが彼女の生きる指針となり、勇者ヒンメルならどうするかと問いながら、今度はその思いをつないでいくために冒険を続ける。死者は、ときに生きる者を支え、進むべき道を教えてくれる。


肉体は蒸発しても信念は世界にとどまり続ける。死者の想いは現に社会を形作り、生活の隙間から掘りかえされ発見されることを辛抱強くまち覗いている。意志の化石が堆積した土壌に生きていることを僕たちは思い出すべきだ。


師弟というつながり

この物語では師弟関係が一つの題材になっている。師弟関係ほど人間にとって強いつながりもないと思う。自分よりも自分のことを知っている他人、その信頼関係のうえで自分を否定し、正しい方向に導いてくれる師という存在。死んだあとも「技術」という形でそのつながりは残り続け、受け継いだ思いは一生の指針になる。何かを託し託され、未来につなぐ「次世代」があることは人間にとって希望そのものでもある。

レイリーとかビスケとかベスト・キッドとか見てるときからほんとに憧れがあった。フィクションでは頻出する関係性なのに、現実ではあまり一般的とは言えない。今はとくに、なにかと縦の関係が敬遠されがちな時代だ。

でもだからこそ、このつながりの価値を見直すべきだと思った。この物語を見ていると、なんというか人間にはやっぱり褒めてくれる人が必要なんだなと思う。でも褒めが発動する条件ってけっこう限られている。信頼がないとだめだし、かといって明確な実力の上下関係が必要だ。相手のことを尊重するからこそ褒められないというのもあると思う。褒めることは、褒められることより難しい。

だから今必要なのは、能動的に人間関係をやる姿勢なんだと思う。自分から教えを請い、教わったことをまた他の人に伝え、相手を尊重しているつもりで実際は自分が傷つくのを恐れているだけのことをやめ、ちゃんと褒めの連鎖を作っていく姿勢。これをやっていきたい。


「遅さ」というテーマ

フリーレンたちの旅には寄り道が多い。歩くのも本当に遅い。旅の目的なんかほとんどないも同然で、一つのエピソードでいつのまにか何か月も経っていることはざらにある。

その旅を左右するのは、フリーレンの魔法への執着であることが多い。自分の関心をつらぬくその姿は、他人からみればまったくもって無駄なことを、自分の楽しみのためだけにコツコツとやる、子どものころに親しんだあの快楽を思い出させてくれる。千年以上も生きているのにどこか幼さを感じるのはそのためだろう。

他人の評価なんか気にせず、自分のペースで何かに執着できることは、人生を豊かにすることをフリーレンは教えてくれる。

長い時間をともに過ごす中で、人間関係の面倒くささもみえてくる。たとえば、こんなこと言うと誰かに怒られそうだけど、フェルンのキャラはだいぶだるい。それが原因で(としか思えない)、パーティーの空気が悪くなることも結構ある。
またフリーレンとの時間感覚のずれは結構ストレスになる。実際フェルンとシュタルクはそのことに若干いらつきながら、旅を急かすこともある。一方でそんなフリーレンの生き方に好意を持ってもいて、フリーレンの方もそこに気を使うようなったりする。

そのゆっくりとした宿命的な時間の中でしか築けない関係があることは確かで、ときに退屈もするだろうそんな時間が生む人間関係の機微を、この作品は丁寧に描いている。いつのまにか過ぎ去っている数ヶ月の間にもいろいろあるんだろうなって想像力をかきたてる。

 

縦の時間

ここで示されているつながり=死者、師弟関係、遅さ、これらに共通するものは「縦の時間」だ。激しく流動する横の関りしかない現代において、ブレにくい一本の時間的な軸を手に入れること。過去を生きた人間の想いを知り、学ぶべきロールモデルを見つけ、コストを引き受けて長い時間をともに過ごす他人(仲間)を作ること。これが人間には必要なのかもしれない。

そしてそれは縛られるものではなく、対話可能なものであるべきだ。たとえば過去とのつながりの対象がイデオロギーとか現象だったとき人は簡単に間違える。だから個別的な他者であることが重要。一対一の時間的に縦の関係。それを意識的に手に入れに行くこと。

めんどうな人間関係なんかやらなくてもタイムラインの奥の同じような悩みをもった誰かと簡単に傷をなめ合える時代。速すぎる社会の流れの中で、心に負った切りきずを治癒するまもなく、膨大な量の情報や刺激でその痛みを麻痺させ、使い捨ての人間関係で寂しさの穴埋めをする。

僕たちはそうすることで何を失っているのか?『葬送のフリーレン』は、そんな問いを投げかける。

 

魔族と言葉

取り上げずにはいられなかったテーマがある。それが魔族と人間の関係についてだ。これは『進撃の巨人』におけるエルディアとマーレの関係や無垢の巨人という存在、『呪術回戦』の呪霊、また『僕のヒーローアカデミア』のヴィランなどで扱われている問題に通じるものだ。つまり、対話不可能な相手とは殺し合うしかないのか?という問い。この問題は、僕たちの時代にとても切迫した存在感を放っている。

『葬送のフリーレン』では上記の諸作品よりためらいなく、言葉を使って理解し合えない相手との対話は不可能であるとひとまず判断した。どんな卑怯な手を使っても、誇りに背を向けてでも始末するべきだと。
とはいえ、現実の世界ではそう簡単に割りきれるものじゃないのも確かだ。敵は同じ人間なのだから、その相手を対話不可能な「魔族」だと認定したとたん自分の側も同じことになってしまうという単純な構造がある。いまやどんな価値観によっても正当性を担保することはできないため、自分だけ人間でいることはできないのだ。

では魔族とはこの世界に置き換えると何だろう。対話が閉ざされている状況とはどういうものだろうか?
 
たとえば目先の承認の奴隷になって他人からの忠告を自ら断ってしまうこと、言葉を理解し合うためではなく自分の利益を得るためだけに使うこと、初めから相手を「格下」「格上」と認識し相互理解の必要性を感じないこと、「全体」の利益のためなら少数の犠牲は仕方ないと考えなしに偽悪をやること、「空気」的な支配が多様な考えを封殺すること。

普通に生活していても、対話をあきらめる瞬間なんて無限にある。むしろ対話できることの方が稀かもしれない。

つまり対話不可能な状況は、時と場合、また立場や精神状態などの条件によって、どんな時でも誰の周りでも起こり得る。そのため特定の人間や属性を安易に悪だと決めつけるのはとても危険だ。それに建設的じゃない。これは人間性や人格の問題ではなく、言葉という概念装置の機能と限界、またそれによって生み出された社会構造、人間の内側にありながら外側でもあるもっと根源的な「謎」として、その可能性を探っていくべきものだと思う。

実際、この作品では広い意味での「言葉」が大きなテーマになっている。例えばこの世界の魔法は、けっしてファンタジックでも劇的でもない。観測を中心として、実験や理論の積み上げ、膨大な失敗と地味な進歩を繰りかえす、そういう長い時間(歴史)をかけて発達していく泥臭いものとして描かれている。言ってしまえば魔法とは科学であり学問であり人間の知的探求心そのものだ。というか、魔法とは言葉そのものだ。

そして面白いことに、こういった言葉の数理的な側面に対して魔族は、人間から見ればそう認識できるような「誇り」をもっていたり「脅威」を感じていたり、少なくともなんらかの「傾向」をしめす。これは、感情的にわかり合うことは不可能でも共通項、例えばなぜ見た目が似ているのか、なぜ同じ言語体系を使えるのか、それを扱える知能の仕組みはどんなものかなどを探り合い、妥協点をみつけることの可能性を考えさせる。

未知のものへの恐怖は人を思考停止に陥れる一方で、人間には未知のものを理解したいという欲望がある。知ろうとすることそのものを楽しむことができる。それにさえ開かれていれば、やりようはいくらでもあるのではないか。例えばそれぞれの欲望や矜持が重なるところで交感し、憎みながらも尊重し合う関係はありえるのではないか(マハトとグリュックの関係)。
 
このような、自身の感情の動き(行動原理)を俯瞰して発生原因を分析し、そのうえでそれを尊重する「メタ合理的」とでもいうような態度が、これからの時代、わかり合えない者同士が共存していくための鍵になるのだと思う。

しかしそのうえで現実問題として政治的に、妥協点を探ることが不可能だと判断したとき、そのコストを受け入れきれないと判断したとき、やはり僕たちは当たり前に殺し合うしかないのだろう。

これらの根底には、人間は何をもってその対象を対話可能な存在としてみなすのかという問題がある。いやもっといえば、人間はなんのためにコミュニケーションをするのかという問いだ。

人間を模した魔物は殺しづらい。それは人間の形をしているから、ただ人間に備わる共感という機能が作動してしまうというだけのことなのか?ではそれが作動しない魔物の形をした魔物なら躊躇なく殺してもいいのか?動物や昆虫、はたまた木や川などの自然にすら心のようなものがあるという仮説が現実にあるが、人間の生活のためならそれらを破壊していいのか?AIはどこまで進化すれば人間とみなされるようになるのか?はたして心とはなんなのか?

問いが広すぎて僕にはとてもあつかえないけど、これは、世界規模の危機に直面している人類の、存続にかかわる本気で切実なテーマだ。


生存戦略としての今この瞬間

このように、この作品は物語全体を通してかなり切実な問題を扱っている。言いかえればちゃんと「死」を直視している。このリアリズムみたいなものが随所にしみわたっていて、それが異世界転生系っぽい後日譚の物語でありながら、ゆるふわ日常系ご都合主義ファンタジーからは一線を画している理由の基盤となっている。

そして、使われているモチーフ自体は結構ありきたりな色んなものからの寄せ集めなのだけど、フリーレンという全体を貫く存在が、この物語に神話性とでもいうような巨視的な視点を与えている。これがユニークなポイントだ。どういうことか。

比喩的に言えば、なんというか『進撃の巨人』で奇跡みたいな連帯を果たして始祖を倒したアルミンたちが、自分たちの物語を世界に語ったあとの、その答え合わせみたいなことをしているように感じるのだ。アルミンは、それでも争いはなくならないと看破して物語を締めたけど、本当にそうなのか?とそれを確かめようとする姿勢がこの作品にはあるように思う。

社会への絶望が根底にあること、死を直視していること。この作品はそれを踏まえたうえで、その生存戦略として今この瞬間の人間関係を大切にし、そのくだらなさを楽しもうという生き方を示している。だからこんなにも僕たちの胸を打つ。


「強さ」と承認

「そうだね。」というフリーレンのあの相槌を聞くたびに僕はなぜか泣きそうになってしまうのだけど、いったん相手の話を完全に受け入れるあの余裕は、今の僕たちに圧倒的に必要なものだと思う。しかし同時に、今の時代手に入れるのがもっとも難しいものでもある。

人間関係をちゃんとやるためには「強さ」が必要だ。結局のところフリーレンは、承認の問題をクリアしたうえで、人生というゲームを殿堂入りした後で、ただの余生をやってるだけなのではないか?人の話に耳を傾けられるのは、他人の評価一つではびくともしない実存があるからじゃないのか?その強さはどこから確保してきたの?そんな風に訝ってしまう。

これが、この物語が示す生き方を素晴らしいと思いながらも、簡単には受け入れられない自分がいることを直視せざるを得ない理由だ。

フリーレンの世界では弱い人間は簡単に死ぬ。冒険は命がけで、現実でもそれは同じ。だから出てくるキャラクターはみんな強くてかっこいい。みんな何かしらの傷を抱え、それにちゃんと向き合っている。実力があり、自分の哲学(こだわり)があり、相手の行動原理を理解しようとする余裕がある。彼らはちゃんと死線を潜り抜けてきたのだ。

それは分かる。では、なぜ彼らはあんなにかっこよく生きられるのか?なぜ命をかけて戦えるのか?才能があるからなのか?育った環境が過酷だったからか? どうやったら僕もそんな風に生きられますか?

その答えは直接には描かれていない。例えば一番立場が近いはずのフェルンとシュタルクは、その問題をあっさりクリアしてしまっている。

フェルンは両親を戦争で失い、崖から飛び降りようとしていたところをたまたまハイターに救われた。ハイターに自分を救ったことを後悔させないため、必死に努力し一人前の魔法使いになった。シュタルクは魔族に襲われた故郷から自分一人だけ逃げ出してしまったトラウマを抱えながらも、その臆病さを買ってくれたアイゼンのもとで修業し、強くなった。

フェルンとシュタルクが強くなれたのは、運がよかったからだ。たまたま命を救われ、たまたま優秀な師匠に恵まれ、たまたま「生きる意味」を備給できた。そこに彼らの意志はない。

これはあまりにもひねくれた考え方だろうか?不幸を望むことは倫理的に間違っている。「意味」を与えてもらえなかったことを恨むのは間違っている。お前が弱いのは、ぬくぬく育ってきたからでもなく、誰かが助けてくれないからでもなく、現実から逃げてるからだ。

でもそんなこと言われたって僕にとってはこれがけっこう切実な問題なわけで。

別に好き好んで生まれてきたわけでもないのに、なんでこんなにつらい思いをして100年も生きなきゃいけないのか。すべての動機が自分に帰属されるこの社会では、自分の意志を貫くと必ず誰かを傷つけることになる。傷つけたら嫌われる。嫌われるのは怖い。物語をはじめ、お前がはじめた物語だろ、で責任を取らされるのがマジで嫌だ。何もしたくない。社会が怖い。子宮に帰りたい。あれ、シンジ君はどうやって大人になったんだっけ。

これは本当にしょうもない感情だと思う。ある種の人々にとっては、ごちゃごちゃ言ってないでやれ、で解決することだ。というか問題にもならないだろう。


「才能」と承認

才能が先か、努力が先か。他者からの承認への関心を上回る好奇心(=才能)があるから結果(承認)を気にせず過程(目の前のこと)に執着できるのか、努力して目の前のことに執着するから承認(結果)を気にしなくなれるのか。

常時接続によって物心つくころから承認交換の魔力に触れ、他人の評価を気にしすぎる僕たちにとってこれは切実な問いだ。これで変になってる人いっぱいいるし。他人にお前は生きててくれって承認されないことにはろくに前を見ることもできない。

僕たちのとりあえずの課題は自信をつけて人生に余裕をもち、人間関係をちゃんとやれるようになることだ。でも僕たちはこのくそサバイバル社会の荒野に置き去りにさたうえ、たいしたモチベーションもないのに自己責任自己満足という理念のもと、自分で実力をつけ自分で師匠や仲間を見つけなければ、生き残れない。比喩ではなく多分本当に生き残れない。それほどまでに社会は崩壊し始めているし、その危機感は多くの人に共有されているだろう。少なくともそう信じてしまう程度には僕は誰のことも信じられない。

そんな「無理ゲー」な社会を前にして、どうやってこの人生に意味を備給し、ひとまず死にたくならないくらいの自己肯定感を身につければいいのか?才能とは、承認なんか気にせず目の前のことに執着できる力だとしたとき、才能のない僕たちにとって「生き残る」ことはモチベーションにならない。あまりにも「くだらない」自分の人生のためにこんなにつらい思いをする価値があると思えない。

これがうつ病的自己防衛の核心だ。守るべき価値が自分の中にあるわけでもないのに、傷つくことの先にその対価を得られるとは思えないから、傷つくことから無意味に自分を守らざるをえない。この自己防衛は初めから失敗している。すべての行為の意味が自分に帰属する社会で、動機を自力で調達できない人間は、自分をただ正当化するために生きることになる。

この作品は、現代の情報社会における諸問題を的確に扱っていながらも、そこは見ないふりをされている。フリーレンたちみたいに強く生きられるのは、けっきょく実力があるからなんだよな。実力もないのに組織にも属さず他人の目も気にせずのうのうと生きてたら普通に死ぬと思う。

その意味でこの作品は、少年少女の物語というより、人生長い長い百年時代、資本主義のサバンナを勝ち抜いて殿堂入りした大人たちの、人生二週目の物語だとも言える。彼らには一人でも多くの弟子を育ててもらうことを願うばかりだ。


情報環境と承認

理屈で納得することでしか前に進めない自分のために、承認をめぐる問題についてもう少し考えてみよう。常時接続の情報社会で、僕たちはなぜ生きる気力を持ちづらいのか。

例えば、プラットフォーム経済(アテンションエコノミー)が圧倒的な引力をもつ今、実力をつける=承認を得る(フォロワーを増やす、バズる)になってしまいがちな現実がある。本来は自分が何かをできるようになることと、それを多くの人に評価してもらうこととは全く別のものなのに、それを同列だと錯覚してしまう構造がここにある。もしくは前者が後者を飲み込んでしまう構造。

それは、すべてが個人の承認の問題、コミュニケーションに回収されてしまうからだ。「誰が言うか」「どう言うか」ばっかりみんな気にして、「何を言うか」「実際何をしているか」なんて誰も興味をもたない。人間の関心は、今あまりにも内側を向きすぎている。これはとても窮屈でしんどいことだ。

情報技術に支援された市場が世界を飲み込み、すべての空間がインターネットに接続されてしまった。外側を失ったその狭い繭のなかでポジションを取ろうと必死にもがく。自分の賢さをうまくアピールし、誰よりも正しそうなことをいって誰よりも時代の空気を正確に読み、一番メタ認知できたやつが勝ちゲーム。他人を下げて自分を上げる一番愚かなタイプのコミュニケーションが蔓延し、ただの悲観を自虐的に彩って現実から目を背けるための口実(共感)を集めることがそのまま金になる。他人の苦しみやその問題の中身になんか誰も興味がない。みんな社会を諦めてしまっている。

社会は良くない方向に向かっているらしくて、みんなもなんとなくそれに気づいているはずだ。それでも動かない。動けない。まるでチキンレースでもしているみたいに、生活に支障をきたし始めた人から順に脱落していき、脱落した人から順に「暴力」が正当化されていく。ここでは、苦しんでいる証拠(被害者性)がある種の権威になるような、屈折した不毛な空間が醸成されている。

 
またもっと単純に、インターネットは近すぎるわりに広すぎるという問題がある。日常が世界一に侵食されている。

たとえば川に遊びに行ったとき水切りが13回くらいできて超楽しくてこれは何らかの達成だ、普通どれくらいできるものなんだろう、と思って検索したらギネス世界記録の88回の動画とかすぐでてきて一瞬でやる気失せたり。そんなのばっかり。13回でもだいぶ迫力あったのに88回はないでしょ。全力のバジリスクかよ。それに比べてなんだおれのはしょうもない。腕ぶっこわしてまでやる価値ないな。

こんな風に、新しいものへ接続する機会がどんどん削られていく。「好き」のハードルがどんどん上がっていく。他人との比較を通して自分をみつけるのは当たり前のことだけれど、その対象があまりにも広すぎるのは情報社会の負の側面だと思う。インターネットは近すぎるわりには広すぎ、ちっぽけな自分はあまりにもちっぽけすぎる。

別に世界一になるつもりはなくても、比較したときにあまりにも差がありすぎて、単純にもっとうまくやろうという気になれない。

こういうことを無意識に繰りかえすことで気づかないうちに色んなチャンスを逃している。ほんとに。自分の中身がからっぽだと感じてしまうのは、自分を不用意に相対化しすぎているからだ。もっとうまくやれる人はいくらでもいるんだろうな、という日常に侵食した世界が強制する「前提」が人を不自由にする。

 
いったん整理しよう。
1.実力をつけ、精神的に成熟するためには何かにコミットする必要があるけど、相対化に相対化を重ね色がなくなった空っぽの実存は、何にコミットすればいいのかを教えてくれないこと
2.自信をつけるためには身銭を切って何かに取り組むための長い時間が必要だ、かといって時間もなければ、その目的のないコミットメントの不安にも耐えがたいこと
3.しかも才能=実力=人間関係=資本という構造が手にとるように見えてしまう世界、そもそも才能もない、執着できるほどの胆力もない、なんの取り柄もない自分には何もできないじゃないかという諦念が自分を縛り付けてしまうこと
そういうことを述べてきた。

承認を超える執着もなく「やりたいこと」を捏造することすらできない僕たちは、資本主義の構造の中でひたすらに「成長」を求められ、不安を煽られ、適応することに疲弊し、そうやってふらふらしているうちに承認交換の引力についには全身のみこまれてしまう。

 



このくそゲーから降りる方法はあるのか?もちろんある。あると思ったからこの作品について書いた。最後に、フリーレンの生き方にそのヒントを見出して終わろう。

フリーレンは本当に、最初から天才として生まれたというだけのことで人間的に強くなれたのだっただろうか?弱さを見つめること、人間関係をちゃんとやること、人生を楽しむこと、それらのことに、自力ではどうにもならない先天的な能力は本当に必要なのか?

そんなことない。いやそんなことないと思うしか道はない。そう、これは意志の問題だ。

自分が総体的にまた相対的に優秀かどうか、一般的に水切りができる方なのかできない方なのか、そのことに「意味」があるのかないのか。そんなのどうでもいいからせめて楽しく生きたい、言い訳するのも飽きたしちゃんと生きていこう、この社会の過酷さを直視し、死を覚悟しそう決めたのなら、やれることは無限にあるはずだ。それこそ、1000年生きてもやり尽くせないほどに。


平和な時代を作る魔法使いの条件

なぜ僕たちはこの物語にこんなにも心を惹かれるのか。フリーレンたちの生き方のどこにあれほど魅力を感じるのか。僕たちはどうすればこの社会に人との「つながり」を取り戻し、生きる意味を調達できるのか。

フリーレンは、最初からあんな風に強く生きていたわけじゃない。フランメが死んだあと、フリーレンは魔王をたおしに行くこともなく何百年も無気力にだらだらと生きていた。人と関わることも魔王と戦うのも怖かったからだ。すぐ死んでしまうのに人間と仲良くなってもむなしいだけ、自分が魔王に勝てるとは思えない。そうやっていろんなことを諦めていた。冒険に出なかったことを後悔しながら村にとどまるザインに、同族嫌悪を抱いていたことからもそれはわかる。これは、今の僕たちの姿そのものだろう。

では何をきっかけに魔法に執着するようになり、あんな風に人間に向き合えるようになったのか。絶望するくらい果てしなく長い人生を歩むフリーレンに、生きる意味を供給したものは何か。


それこそがヒンメルたちとの出会いだった。


僕が一番好きな会話がある。アニメエピソード5冒頭、アイゼンとフリーレンの会話だ。


回想シーン
「弟子はとらないのか?旅は話し相手がいた方がいい」
「時間の無駄だからね。色々教えてもすぐに死んじゃうでしょ」
「フリーレン、人との関係はそういうものじゃない」
「そういうものだよ。みんなとの冒険だって、私の人生の百分の一にも満たない」

ーーーーーー

「そんなことも言ったけね」
「面白いものだな。その百分の一がお前を変えたんだ」

 
この物語のよさのすべてがここに詰まっているといっても過言じゃない。たった十年の冒険と、それを通して彼女自身がヒンメルたちを知りたいと望んだことが、彼女の人生を変えたのだ。

紅鏡竜を倒そうとシュタルクに助けを求めたとき、シュタルクはなぜ命をかけて戦うのかと尋ねた。それに対してフリーレンは「集めた魔法を褒めてくれたバカがいた。それが理由になるかな」と答える。

永遠みたいな時間を生きるフリーレンにとって、それはくだらない、本当に些細なものだ。しかし人を決定的に変え、人生に意味をまで与えてしまうのは、その程度のできごとなのだ。逆に言えば、「決定的に変わってしまった後の自分」なんて存在しないのかもしれない。だとしたら何かを待っていても仕方がないだろう。

たぶんほんとに何でもいいんだよね一歩踏み出す理由なんて。きっかけなんてなんでもいい。没頭できるほど好きなものを見つける必要もない。ほどほどでいい。たとえばこの物語に出会ったことは十分何かを始めるきっかけになる。

人が何かにコミットする理由なんて実際その程度のもので、個人のやってることに大した価値なんてない。誰からも評価されなくて空しくなって、なんでこんなことしてるのか分からなくこともあると思う。でも、たしかにそうすることを選んだ。選んだものに執着し自分にとってかけがえのないもの、それを生きる理由にできるかはその後の自分次第なのだ。

 
言葉=魔法が特別なものではくなり、全ての人間がそれを自由に使えるようになる時代をゼーリエは恐れた。実際現代を見ると、情報環境に支援されて肥大化した有象無象の言葉たちは社会の秩序を壊し、あらゆる権力は解体されつつある。思慮の欠けた言葉は魔族がそうするように対話を不可能にし、魔法としての力を損なわせる。

自分のためにしか言葉を使わない人々がはびこる社会は、世界そのものの魅力を奥の方に隠してしまった。だから世界の全部がつまらなく見えてしまうこと、それは事実だ。絶望を正当化できる程度にはこの社会は実際にひどい。

しかし一方でフリーレンは、そんな世界が訪れるのを楽しみにしていた。無秩序な世界で副作用的に現れる新しい魔法=力のある言葉をたくさん見られるのだと。これもまた事実。ゼーリエは秩序の時代に君臨し、フリーレンは混沌から生まれる新しい時代に心を躍らせる。

そしてそれを可能にするかどうかは、今を生きる僕たちの意志にかかっている。僕たちは、フリーレンが面白がってくれるような魔法使いに、自分の言葉を使って自分の物語を語れる人間に、なれるだろうか。こんな世界を、面白がれるだろうか。


必要なのは、承認交換の引力から自立し、タイムライン(世間)にいちいち実存を同期させないこと。フリーレンのように孤独を生き抜くこと。言葉と向き合うこと。自分の問やテーマをもち、人生を楽しみたいと強く望むこと。そしてその意志こそが、人と人とのつながりを作る。そのつながりは、必ずしも現在の人間関係とは限らない。それは死者であり、歴史であり、人間の探求心が扉を開いた世界そのものであることもある。

そしてコストのかかるその「縦の時間」を介したつながりが(良くも悪くもではあるけれど)執着を加速させる。何かのためだと思えば頑張れるし、いつかの誰かにとって意味のあることだと思えば最後までやれる。そういう経験はあるはずだ。そして、結局それが自分だけの「意味のない」楽しみになることも知っているはずだ。

意志によってつながり、つながりによって人はまた生かされる。そんな円環運動の中に僕たちは生きている。フリーレンはそういうことを教えてくれた。

たとえ圧倒的な才能と実力があっても、人は怖いときは怖いし、承認の問題から無関係ではいられない。人には人の支えが必要で、でもそれは部屋にいるだけで得られるようなインスタントな承認では決してありえない。まともな人間関係にはちゃんとコストがかかる。傷つくし怖いしグロいし面倒くさいし複雑でわけがわからない。でもそれが生きる意味を与えてくれることがある。


僕たちは何かできないことをすぐ才能や環境や自分の「せい」にしてしまう。一歩踏み出すのが怖いから、それを恵まれた人だけができる特別なことだと思い込むことで、何もできない弱い自分を正当化する。自分よりすごいやつが腐るほどいてやる気が失せることもある。みんなが面白がってることを自分は面白いと思えなくて死にたくなることもある。この世の不条理に絶望することもある。世界は悪くなっていく一方だとしか思えない。でもそんなことは全部、人生を楽しめない論理的な理由にはならないのだ。

そのうえで、これは直視すると耐え難いほどの恐怖を感じるけど、人はいつか死ぬ。というかエルフではないのですぐ死ぬ。どれだけ強くても関係ない。どんなにすごいことを成し遂げてもたった100年も経てば誰も覚えていないし、魔王を倒すような劇的な人生でも衰えてからの時間の方が長い。歴史的な視点からみれば、実力なんかあってもなくても同じこと。今死ぬのもあとで死ぬのも同じこと。

 
そして、僕たちの人生は、劇的にもなりえなければ崇高な目的ももちえない。世界を救う勇者にもなれなければこの社会に果たせることなんてほとんどない。自分の人生をやるのだってしんどい。生きた証を残そうなんか思ったこともない、しょせんはその程度のくだらない人生だ。僕たちは目的を喪失した後の社会にいるのだから。


でもフリーレンは、目的がなくなった後にむしろその人生を始めた。


「終わった後にくだらなかったって笑い飛ばせるような楽しい旅をしたいんだ。」その気にさえなれば、この世界は面白いことに満ちあふれている。心を開いていれば動き出すきっかけはそこら中にある。言葉に敏感になり、世界からの呼びかけに応え、その手をただ取ればいい。
そのうえで困ってる人がいたら助け合おう。勇者ヒンメルならどうするか。ヒンメルのところにそれぞれの勇者を代入して考えればいい。


この絶望の国から、人生のくだらない生存戦略を始めよう。その中で生まれるつながりを通して、僕たちはこれからの新しい平和な世界を作ろう。


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